時間としての歴史の本質

 歴史は時間の学と言われる。時間の本質は歴史の本質と言い得ると思う。以下時 間の形相を考えそれと歴史の関聯を考えたいと思う。

 通常時間は無限の過去より、無限の未来へ流れると考えられている。而し少し立ち 入って考えて見れば斯る考えの如何に素朴なるものであるかを知るであろう。過去は 流れるとき、過去は過ぎ去ったものとして無いものである。未来はまだ来らざるもの として無いものである。現在は今と言った時すでに過ぎ去ったもので掴むべからざる ものである。斯るところに時間は見ることが出来ない。時間があり得るには過去、現 在、未来を包んだものがなければならない。時間は何ものかの時間であることによっ て時間である。過去、現在、未来を自己限定として、内にもつものによって時間は成 り立つのである。日本歴史というとき、日本は時間を超えて自己の中に過去、現在、未来を内にもつものでなければならない。小野市史というとき、小野市の自己限定とし過去、現在、未来を内包するのでなければならない。

 過去、現在、未来を内にもつとは個性的ということである。故に動物が親より生まれて、子を作って死ぬということは眞に時間をもったということは出来ない。過去、現在、未来をもつということは、過去を否定して新たな現在をもつということでなければならない。新しいものを作ることによって、有るものを過去とすることである。生まれて、子を生んで死んでいくというのは、既に自然のプログラムに組込まれているということである。過去を否定して新しい現在をもつとは、新しい物を作ることである。それは技術的である。環境を作り、環境に作られたものとして、今此処に物を作る処に個性はあるのである。

 エジプトが暦を作ったことによって、人間は時間を捉えたと言われる。それによって我我は時間をもったのである。それ以前に時間をもっていなかったのか。私は此処で有名な言葉を引例したいと思う。光りの中に七色はあったのか、あった。而しそれは分光器に解像されることによってあったのである。時間をもっていた。暦に表されることによって持っていたのである。そして暦に表されたものは時間の内容である。時間は暦に表された如き内容をもつことによって時間である。私は此処で暦について少し考察を加えてみたいと思う。

 私は経験の蓄積ということが暦が生まれるために必要であったと思う。経験とは生 命が内外相互転換的として生命圏を作っていくことである。生命は食物を外より攝っ て肉と化し、排泄して外と化す、此処に生命の原型がある。人間は自覚的、人格的と して無限に複雑である。而し何処迄も内外相互転換的に生命を形成していくのである。内外相互転換は刹那に現れ、刹那に消えていくものである。而し刹那に現れ、刹那に消えゆく処に暦はない。刹那、刹那を止めるものがなければならない。それが経験の蓄積である。刹那を永遠に映すのである。人間はそれを言葉にもち、文字に表すと思う。

 私は人間を自覚的生命と考える者である。自覚的生命とは内を外に表して、自己を見るものである。私は人間が暦をもつためには、身体がすでに時間的構造をもっていなければならなかったと思う。天工は人間を時間的形態に創り上げたのであると思う。構造の外化、自覚が暦であり、時計であると思う。内外相互転換としての身体は、暦や時計に表れた如き構造で時間をもっていたのであると思う。即ち瞬間としての行動と、行動を統一する身体である。

 人間は身体を外化することによって、生命圏を拡大するものとして、自覚的、技術的である。物を製作する生命である。製作とは刹那の内外相互転換を蓄積し、保持す ることによって、欲する時に同じ事象を出現せしめることである。暦とは身体の時間、 自然のプログラムに対して、自覚的、技術的なる時間、製作のプログラムである。エジプトの暦とは上述の自覚的生命の上に立った。エジプトの気象、ナイルの怒りと、恵み、植物、種族的特製の総計である。

 内外相互転換は常に刹那的である。自覚的生命の内外相互転換として、製作は常に今製作するのである。而し製作は単に刹那によってあるのではない。今見て来た如く刹那的なるものが永遠なるものを宿す、永遠なるものが刹那的なるものをもつところに製作があるのである。暦とは過去を負うものである。そして現在に働くものである。 そして来年も規定せんとするものである。時が消え、時が働き、時が生まれつつ全てのものがそこにある。そこに製作の今はあるのである。私は以降刹那としての現在 と斯る自覚的現在を分つために、便宜上後者を絶対現在と名付けたいと思う。

 歴史は常に斯る絶対現在が自己自身を見ていくところに成立するのである。農作業 が高度化すれば暦はいくつもの付け加えを必要としたであろう。その為に更に過去を 尋ねなければならなかったであろう。斯る意味に於いて我々は過去も亦作っていくの である。過去は過ぎ去ったものとして無いものでありつつ、絶対現在の自己限定とし 現在より作られるのである。私達は戦前と戦後の史的叙述の変化に瞠目する。勿論 そこには資料の充実といった事のあることを見逃すことは出来ない。而し資料の整備 は歴史的意味を変えることは出来ない。大なる変化の要素は絶対現在としてのイデオロギーの変化である。同じ資料を駆使しても、米国とソ連の歴史叙述はその構成を大いに異にしている。米国は米國の絶対現在より、ソ連はソ連の絶対現在より過去を作るのである。生命が内外相互転換的であるとは、生命は常に危機としてあるということである。危機としてあるということは、突破すべき課題をもつということである。斯る課題に於いて我々は過去をもつのである。突破すべき生命が世界を構成する過去 の方向に見たものが歴史である。歴史は常に書き換えられることによって歴史である。大東亜戦争は最近の事である。而して戦争の意味するものについて、戦中に書かれたものと、戦後に書かれたものを見れば変化は一目瞭然であろう。そこに歴史があるのである。

 勿論絶対現在が過去を作ると言っても、任意に過去が作れるのではない。任意に作 られるものは歴史ではない。過去、未来を内包するとは、永遠なるものが働くことで ある。永遠の形相をもつということである。物を作るということは、流れるものは此処に止まり、生命は完結をもつということである。物は一つの完結をもつたものである。それは生命の一々の時の完結を映すのである。一々が時の完結として、過去の一々絶対現在としての完結をもつのである。そこに歴史的事実が成立するのである。瞬間が永遠なるものが歴史的事実である。製作として物と人とが交叉するところに事実があるのである。歴史は事実より事実へとして、その一々が完結をもつのである。貞観佛、平安佛、鎌倉佛と言われる彫刻は各々他に代える事の出来ない個性として完結をもっており、室町時代の墨絵、大和絵はそれぞれ完結をもっており、刀剣は正宗に完成され、俳句は芭蕉に完成されたと思う。芸術品のみに非ず、日常使う碗類なども、縄文弥生の昔にさかのぼって、一々が完結していたと思う。一々が完結しているということは一々が変遷したということである。一々は個性的として動かすべからざるものである。

 過去は一々が完結する事実として、我々に対立し、今の我々の事実を否定してくる ものである。芭蕉は現在詩人の前に立ちはだかり、ミケランジェロは現在芸術家を叱 咤するものとして過去はあるのである。而して過去は斯るものとして現在より作られ るのである。もし過去が単に現在への過程であるならば我々は歴史を尋ねる必要をもたないであろう。対立するものに於いて対話し得るのである。否定し来るものに於い て肯定に転ずることが出来るのである。過去、現在、未来を内包するとは力をもつと いうことである。物とは力をもつことよって物である。力とは時間に於いて自己自身を維持することである。今物を作るとは既にある物を否定することである。そこに闘いがある。価値に於いて争うのである。我々はミケランジェロを超えと欲する。そのときミケランジェロは深淵の力をもつ、我々はその深淵を覗いて自己の深淵を知る。そこに対話があるのである。否定を介して対話はあるのである。絶対現在に於いて、否定されるものとして、逆に否定として迫ってくる、此処に対話があり、完結せる個性として過去は生きつづけるのである。私は歴史は絶対現在の自問的自己限定として、深く対話としてあるものであると思う。米国は米国の課題に於いて、ソ連はソ連の課題に於いて自己の過去を問う、そこに米国の史的叙述ソ連の史的叙述はあったと思う。私は歴史的にあるものは個性的であるといった。個性的にあるとは過去、現在、未来を内包し、それ自身に於いて完結するものであると言った。それ自身にあるとは連続を拒否するものでなければならない。而し時間は純なる流れであり、歴史は大なる生命の流れでなければならない。初めに書いた如く、日本史というとき、日本は過去、現在、未来を内にもつのでなければならない。日本的一者として、時に自己を限定するものでなければならない。而してその内容は一々が完結するものとして連続を拒否するものである。そのことは歴史とは完結するものは流れるものであり、流れるものは完結するものであるということである。斯るものは如何にして考えられるであろうか。

 私は斯るものを表現せられたものに対する表現するものの方向に求めたいと思う。 歴史は表現されたものを見ていく、而し表現されたものは歴史ではない。表現された ものを見ることは、表現するものが自己自身を見ることであるところに歴史はあるの である。歴史は主体の学であると言われる所以である。

 表現するものは身体としての生命である。身体は製作するものであると同時に生ま れ来ったものである。生まれ、大きくなり、子を生むものである。それは根源的生態である。我々が物を作るとは製作的身体として生まれたのである。何処迄も生まれた ものとして生命である。生命の自己限定として物を作るのである。私は物の個性と独 立は製作としての表現的方向に於いて、流れとしての連続は生まれるものとしての自 然的方向に於いて見られるのであると思う。生まれるものは同じ形相の反覆である。 作られるものは内外相互転換的として常に新たである。而して反覆として生まれ来っ た者は作るものとして常に新たなものである。作られたものは生まれ来ったものの表 現として反覆である。人生は日に新たにして、日々に新たでありつつ、日々は繰り返 しである。此処に完結せるものは流れるものであり、流れるものは完結する所以があ ると思う。次元を異にしつつ一つである。無限に動的である。

 歴史が身体的であるとは経験の蓄積は身体がもつということである。一瞬一瞬を身 体の持続に於いて蓄するのである。身体は種的、個的である。個的方向に内外相互転換があり、種的方面に蓄積があるのである。斯るものが一つなるところに製作があるのである。歴史は身体によってあるものとして飛躍的である。一つの身体が内包し、死して亦一つの身体が内包するのである。それを蓄積としての言葉によって繋ぐのである。非連続の連続である。時間とは流れるのではなくして非連続の連続として我々は時をもつのである。

 身体が種的、個的であり、刹那としての内外相互転換が永遠なるものの働きとして の、経験の蓄積によって物の製作があるということは、歴史とは個を包括するものよ り初まったということでなければならない。私は種族的、民族的なるものより表現としての製作は初まったと思う。全体が先ず自己を露はとしていくのである。個は物の蓄積、生産手段の発展の中より分化されて来たのであると思う。勿論最初より個がは たらくことなくして製作はあり得ないし、分化もあり得ない。而し最初の自覚に於いては個的契機を内包したという迄で、個の自覚は持ち得なかったと思う。民族の自覚として個はあったと思う。現在の我々の自覚も何処迄も永遠なるものに映すことによってあるのである。歴史の発展は外に物と生産手段の発展であると同時に、内に無限に分化と個の確立である。

 歴史に於いてあるものが個として完結するものであるということは、歴史的時とは流れるのではなくして変遷していくのでなければならない。それを流れると見るのは永遠に生滅を映すが故であると思う。歴史は人間生命の総合的時として時代より時代へと変遷していくのである。時代とは如何なるものであろうか。

 歴史は身体的として、外に物が蓄積され、生産手段が発展するということは、内に生産と配分の体制をもつということである。それは体制が生産手段をもつと共に、生産手段が体制を規定するものとして相互限定的である。斯る体制が社会組織である。 体制は常に種としての統一的方向と個としての拡散的方向をもつ、何処迄も我々の身体のあり方に於いてあるのである。而してその統一的方向に言葉としての知的なるものが成立し、個的方向に肉体としての労働が成立するのである。社会に於いて大衆とは肉体をもって生産するもののことである。生産手段が高度化し、複雑化して、従来の体制をもって最早対しきれなくなった時が時代の遷移である。生産手段はそれ自身の内面的発展をもつ、新しい言葉は管理する者ではなく生産するものが担うのである。それに伴って富の転移が行われ、大衆の中から新しい言葉をもって、新しい体制を組織する支配者が生まれるのである。時代は生成、爛熟、退廃を繰り返すという、私はそれは以上述べた如きものの人間的投影であると思うものである。

 大歴史家ランケは保守と革新の対立により時代は動くと言っている。対立により動くとは両者共に力をもつものが否定し合うことである。過去は単に過ぎ去ったものとして過去ではない、過去はその蓄積に於いて過去である。記憶とは蓄積の投影に外ならない。蓄積は力である。現在を限定せんとする力である。革新は動的なる生命の、 物と人とに内在する矛盾に於いて既存の体制を否定せんとする力である。一方は物の方向に、一方は力の方向に生きる者が否定として激突する処に時代は動くのである。生きる者が否定し合うとは戦うことである。時代は流血によって遷移したのである。単に時代が流血によって遷移したと言うのみではなく、私は歴史は生きる人間の舞台として、血と汗を流した痕跡であると思う。時間の最も具体的なるものとしてその 根底に歴史的時があると言われるとき、時間とは血と汗の上に築かれた金字塔であると思う。

 戦は万物の父であると言われる。我々はそこから世界を作ったのである。血風はより大なる中心へと歩を進める代償である。より大なる世界はそこから生まれるのである。より美しいもの、より善いもの、より眞なるものはこのより大なる世界への形象である。我々がもつ幾多の価値は全て過去の幾多の人が血涙をもって購ったものであ る。我々は価値の中に生まれて価値を作っていくのである。斯る意味に於いて歴史は 我々の存在の根源であり、歴史を知ることは自己の根源を知る事である。我々は自覚するものとして、歴史的創造的に永遠より生まれ、永遠の中に死にいくのである。物を作るとは永遠なるものとして働くことである。

 物の製作に於いて過去、現在、未来はあり、この我が物を製作するものであるとき、 この我は絶対現在としてあるのでなければならない。無限の過去を孕み、未来を哺む ものとしてあるのでなければならない。一人一人が絶対現在として働くところに世界 の絶対現在はあるのでなければならない。この一人一人が生死すところに世界は絶対現在より、絶対現在へと働いていくのである。我々は世界の絶対現在を映して絶対現在をもつものとして、永遠に映して自己を知るのである。而して永遠は無限に歴史的動的である。矛盾として、苦悩として我々は永遠に目見えるのである。永遠として歴 史の自己顯現である。眞の時間は神の内の内容である。神は血の犠を求める事によって我々の前に現れるのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」