明明徳

 禅道と儒道という本をふと開いてみると、盤珪禅師の名が見え、播州網干の生れであると書いてあったので興味を起した。書によると師は十五才の時に「大学」を学び、冒頭の明明徳の一句に大なる疑を起したそうである。「己に明徳である。なぜ之を明にするというのか。明徳とは全体何か」と問うた。いろいろ考えたが、どうしても解決がつかず。後に実地の修業にとりかかっても、矢張りこの大疑団をもっていたそうである。常に屈せず撓まず工夫し、三十才に至る迄刻苦精進したそうである。余りに長く坐って時の経つのを忘れる程であったので、とうとう臀肉が爛れてそこから膿血が流れるようになったが、紙を貼って屈せず坐り、遂に重い病に罹って食欲も進まず、とうとう死は時間の問題となったが、「如何に、如何に」と究明し続けた。そして或日豁然として明徳を徹見した。そして見性の喜びにさしもの病気も一日一日と快方に向ったという。道元禅師の本来仏性の究明と軌を一にするものである。私は全て生命の形は斯る出現の仕方をすると思う。

 私は碁を好むものであるが、碁に定石というのがある。この定石というのは永い打碁の裡におのずから形が定って来たものらしい。形が現われた以上現われる所以のものがなければならない。この形は何処にあったのか、それは十九路面の碁盤と三百八十一個の石が作られた時に、既にその中にあったということが出来る。無ければ現われるということはない。併しそれは長い打碁の末に見出されたのである。見出されることによってあるものとなったのである。

 仏家に「狗子に仏性ありや」と言う問いがある。それは恰も双葉の草に花はあるかと問うようなものである。あると言えばある、無いといえばない。生命は時を孕んだものである。無限の過去と未来を内にもつものである。双葉に今は花がない、併し葉が茂りやがて花をもつのである。狗子に今は仏性はない。併し生と生が相対し相呼ぶとき、そこに仏子の胚種は潜むのである。

 明徳とは何か、徳とは生命が形を得たことである。明とは光りによって照されることで あり、分別をもつことである。意識的生命としての人間に於て光りをもつとは、言葉をもち、言葉に於て分別をもつことである。私は明徳を明らかにするとは、言葉によって生命の形を具現してゆくことであるとおもう。生命の形が言葉によって純化してゆくことであるとおもう。

 言葉は我の言葉であり、汝の言葉でありつつ、我にあるのでもなければ汝にあるのでもない。我と汝が呼び交すところにあるのである。それは世界形成的である。世界を形作るものとして我と汝は呼び交すのである。世界を形作るとは、我と汝の内なるものが現われることである。内なるものが現われるとはもともと我と汝は世界としてあったのである。物を作るということは呼び交す生命によってあるのであり、呼び交すことによって物を作るのである。物を作るということは世界を作るということである。

 言葉によって純化してゆくとは、生命が物と成り、物が生命となり動いて一髪も容れざることである。聖書にある如く全てのものが言葉によって成ることである。全てのものが言葉によってなるとは身体も言葉になることである。明徳を明らかにするとは、本来世界としてあるものが、世界としての己を具現することであるとおもう。

 身体が言葉になるとは、身体が世界実現的にはたらく身体となることである。世界と化する身体となることである。そのためには世界と化さざる身体を殺さなければならない。欲求的として自己中心的身体を殺さなければならない。世界に化するとはこれ迄の身体が死することである。盤珪の苦行は、斯る身体の声に呼ばれた必然であったということが出来る。禅家では大死一番といい、死の断崖に身を絶して絶後に蘇るという。キェルケゴー ルは絶望するのが健康な精神であるという。膿汁の流れる身体となることによって、盤珪の肉体は否定的転換をもったのである。欲望のはたらく身体を殺して、言葉のはたらく身体に生きたのである。

 欲求的生命を殺すとは、欲求的なるものがなくなるのではない。生命は欲求的であり、欲求的なるものがなくなるとは生命がなくなることである。欲望を殺して言葉に生きるとは、欲望が言葉の内容となることである。世界形成の内容となることである。世界は我・ 汝・彼の無数の人々が働くところである。この我とは世界形成的に、世界の中にはたらくことによって、世界を自分の中に見ることによってこの我となるのである。汝・彼と働くとは、汝・彼が世界を内にもつものとなることであり、世界を内にもつものの交叉に於て世界は作られるのである。食欲は相互の慰楽となり、異性は対話にいろどりを添えるのである。永遠より招く微笑となるのである。世界を内に見るということが、言葉がはたらく生命となることである。我と汝はそこより生れ、そこに分たれて世界が世界自身を形成してゆく、私はそこに明徳を明らかにする所以があると思う。我々が自己を明らかにすると ころは、世界が世界自身を明らかにしてゆくところである。世界と我とが作り作られて明らかになるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」