日常の言表としての短歌について

クロバーの茂れる堤釣る人の踏みたる跡の一すじ低し

 ながい間御無沙汰していたけるかも会に、先日たまたま行った私の作品である。このときの井上氏の評と、私の動機に食い違いがあるので少し述べて見たいと思う。

 井上氏によれば踏まれた草は低くなってゆくのは当然である。このように当り前のこと を表現したのはつまらない。もっと作者の目が働かなければならないとのことであった。尤もである。当り前のことは初歩的な意識であり、表現として価値の低いものである。併し私にとって踏まれた草が低くなってゆくのは当り前ではなかったのである。例えば茂ったクロバーを、わらび採りなんかで人が踏み初めると、踏まれた草は莖が曲り葉は萎えて伏す。そして次に出て来る草丈は低くなり、茎や葉は表皮を厚くして踏まれることへの耐性をもつ。それが繰り返されると遂に地にへばりつく。私はこの次に出てくる葉が低くなることに、生命のはかり知ることの出来ない微妙を感ぜざるを得ないのである。単に変化ということがある筈がない。それはいのちのはたらきである。いのちのはたらきには機能がなければならない。その機能はどのような組成をもち、どれほどの年月を経たのであろうか、私はそこに気の遠くなるような思いを抱かざるを得ないのである。

 私達の日常の世界は当り前の世界である。この当り前の世界とは如何なる世界であろうか、そこに奇異なるものはない。併し私はそこに深大なるものがないのではないと思う。日々の繰り返しの中に意識が埋没し、当然として深大なるものを安易ならしめているのであるとおもう。ニュートンはリンゴの落ちるのを見て、宇宙を統括する大なる力の体系を見出した。人の呼び声に人が答える。それは当り前のことである。併し人類の壮大なる文化の世界はその上に樹立されているのである。我々の日常は日々の繰り返しである。その繰り返しは如何にして可能であるか、私達は繰り返する為に昨日と今日、去年と今年、親と子、祖先と我を結ぶものを持たなければならない。無限の過去と未来を結ぶものがなければならない。日常とは永遠の今としてあるということである。

 泰西文芸はその究極に崇高なるものの表現をもつと言われる。そこに悲劇の尚ばれる所以があるといわれる。そこにあるのは強大なる英雄の精神である。それに対して短歌の見出すものは日常であり、常民の営為である。ありなれた心の流れである。併し私はそれだからと言って、西洋詩より短歌が劣ると思うことは出来ない。

 詩の価値は如何に深く存在の根底を言表し得るかにあるのでなければならない。在るものとは個が全体であり、全体が個であり、瞬間が永遠であり、永遠が瞬間としてある。全体より個を見るところに、法則や公理としての理性があり、瞬間が永遠を孕むところに、芸術としての美がある。詩の評価は一瞬より一瞬への具象の流れの中に、如何に深く永遠を宿すかにあるのであるとおもう。

 永遠なるものは如何にして表現出来るのであろうか、私はそこに言表があるとおもう。我々の行々歩々は無限の過去と未来をもつことによってあるのである。現在の我を言葉によって捕捉するということは、斯る無限の時を捉えるということである。言葉は斯るものの表現手段として我々を超えたものである。日常を言表するとは、一瞬一瞬の生れて消えるものを捉えるのではなくして、一瞬一瞬を見るものとして、時を統括するものとして、永遠を捉えることである。私は短歌とは、存在の根底に至らんとする表現の日本的方向であるとおもう。日常を言表するとは、日常の根底に至ることである。

 斯く言うことは頭書の私の歌が佳い歌であるということではない。と言うよりは表現の 未熟の故に、意図に反して内藤先生、小紫博子さん等の集中砲火を浴びた作品である。唯私は日常の奥底にあるものを言いたいのである。けるかも会の諸氏は未練がましいと思われずに諒とされたい。

 尚禅家に日々是好日という言葉がある。私はこれは永遠の目によって捉えられた日々であるとおもう。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」