散り葉を見ながら

 折柄の風に公孫樹の葉が、光りを浴びて金色に輝き乍ら散り落ちている。思わぬ美しさに、私は近寄って一葉を拾い上げた。残りなく黄色と化した葉は一種の透明感さえもっている。而して見惚れ乍ら、今更の如く感嘆の思いをもったのは、その精緻を極めた葉脈であった。繊細な筋線は、複雑に織りなし乍ら整然としている。更に二、三葉を拾っても同様である。たった半年程梢にあるだけなのに、樹はこのようなものを作っているのである。私の心は名状しがたい感動につつまれていた。私は生命の不思議へ、思いをめぐらせていった。

 葉は芽吹いてたった半年梢にあっただけである。併しての複雑な構造は、半年や一年で出来たものではない。何億年、否何十億年を芽生えと枯死をくり返し乍ら形造って来たものである。乾燥に耐え、風雨と戦い、寒暑を凌いで形造って来たものである。単細胞より何十兆の細胞の構成へと成長して来たのである。

 生命は一瞬より一瞬へと動いてゆく。新しき生命は次々と生れ、生れた生命は刻々と死に近づいてゆく。動くとは相反するものに移ることである。生命は死をもつことによって生命である。ギリシャ神話に、不死を願って石に化せられたというのがある。生命にとって死は避くべからざる運命である。

 生命とは生きんとする意志である。生きるとは死を超克せんとする努力である。併し死は生命の竟の宿命である。如何なる苦闘をもしのび寄る老いは力を萎えしめ、黄泉へと赴かざるを得ない。追憶の中に露命の儚さを思い、槿花一朝の夢を嘆かざるを得ない。流汗浅血は唯淡き残像をもつのみである。

 併し半年で散りて消えゆく公孫樹の葉は、億年の長き歳月を潜めるものであった。 堆く散り積った葉は、半年の生きんとする力の集積である。散り落ちて来年亦、新しい葉が芽吹くことが出来るのである。木は枯れることによって、新しい木が成長するのである。この限り無い繰り返しがなかったら、単細胞より何十兆への細胞の構成がどうして可能であったであろうか。そして何億年の構成の成果に一枚の葉は今有るのである。

 全て生命が、主体的、環境的であるとは、環境の変化と共に変化するという事である。そこに生死がある。生死とは、環境を主体化し、主体を環境化することである。相互に否定しつつ動的一として形相を実現してゆくことである。

 限りない時間の前に、朝を葉末に置く一つの露と思える我々の生命も亦、量るべからざる深さをもつのである。人間には百四十億の脳細胞と、六十兆の身体の細胞があるといわれる。それが機能的に一つのものとして働くのである。私達は鮭の稚魚が大海を回遊すること五年にして、放流された母川に回帰するという事に驚嘆し、生命の不思議を感ぜざるを得ない。併し人類が養い来ったものは更に甚妙である。我々はこの限りない時間を潜めもつものとして、死んでゆくのである。死とは、死ない命が消えてゆくといわなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。我々は自己を、外に物を造ることによって知るのである。自己を表わすことによって見るのである。物を作るには、内外相互転換としての、生の営みの無限の蓄積がなければならない。過去が現在であり、未来が現在でなければならない。伝統がはたらくと共に、理想が働くのでなければならない。否現在の相互転換が過去を孕み、未来をはぐくむということが物を作ることである。伝統の技術は、今物を作ることによって伝統の技術である。理想は、物がその可能性に於て未来に投げかけた形相である。技術の先取である。

 人間は言葉をもつことによって人間になったと言われる。人間のみが言語中枢をもつと言われる。言葉は個の生存を超えて、過去を伝承し、未来へ伝達するのである。過去を伝承し、未来へ伝達するとは、言葉が過去と未来を内にもつということである。我々が言語中枢をもつということは、始めに終りをもち、終りに始めをもつということである。始めと終りを結び、時が現在に於てあるということである。

 人間は言葉によって経験の蓄積をもったと言われる。物を作るとは、過去と未来が結合し、自己と他者が一つなることである。人間はそれを言葉の使用によって実現したのである。自己を超えた過去と未来を、はたらく現在の両つの方向としてもつということは、永遠なるものを宿すということである。過去と未来が現在に於て結合するところに物の製作があるとは、物の製作は永遠なるものがはたらくということである。聖書に、初めに言葉ありき。言葉は神と偕にありき。言葉は神なりきとある。創造はここに初まったのである。我々が言語中枢をもつとは、絶対の超越が内在であるということである。絶対の外が内であることである。神が自己であるのである。それは矛盾である。我々は深き矛盾として、生命である。そこに種と個がある。種と個は各々の方向に自己の存在を主張するものとし相容れざるものである。否定し合うものである。種の自覚としての世界と、個の自覚としてのこの我は深淵を距てて対するのである。言われる歴史の深淵とは世界と我の相互否定としての動転である。而してこの動転に於て、世界は世界となり、この我はこの我となるのである。個は世界を写し、世界は個に自己を実現するのである。

 自覚的生命に於て死ぬとは、生物的身体的に死ぬのではなくして、表現的身体的に死ぬのでなければならない。言葉や技術はこの我にあるのではなくして、世界としてあるのである。我々はそれを習得することによって自己の内容とし、内容とすることによってこの我を確立するのである。名前は自己の名前である。併し他者によって名付けられたものであり、世の中に於て他者との関りの為に名付けられたものである。技術は先輩より教えられたものである。若し生れて直に無人島に捨てられたならば、我々は言葉も技術ももつことが出来なかったであろう。

 我々が言葉や技術の秩序に随うということは、自己の恣意を捨てて世界になるということである。世界の自己実現の内容となることである。世界創造の一要素となることである。表現的世界に入ることである。併しそこはまだ自己の為に世界をもつのである。表現的身体的に死ぬとは、転じて世界の為に自己がある ない。自己が物を作るのではなくして物に化すのである。物そのものとなるのである。物に化すことによって、物 は歴史的物として内面的発展をもつのである。自己構成的となるのである。世界が世界を 限定するのである。

 葉は幾億年を芽吹き散ることによって、精緻なる葉脈を構成した。人間は幾多の人々が世界に生れ、世界に死ぬことによって、物を多様ならしめ、文化の絢爛を実現したのである。応挙一人の絵画の世界はない。現在の世界とは、生れて死んでいった数知れない人々の努力の証跡である。

 葉は半歳に散る。併しその巧緻なる構造は幾億年の営為の成果であった。我々人間も百歳に満たずして死ぬ。それは無始無終の時の前には一瞬にも比すべきものである。併し我々も限りない人類の営為の成果としてあるのである。幾億年を宿すものとして、身体文化をけてもつのである。我々の一挙手一投足は、斯る身体と文化を享けたものとしてもつのである。而して葉が半歳をその精緻なる構造に於て同化作用をなす如く、我々は歴史的現在の事実として創造作用を行うのである。物に化すとは、有限なる感性的自己が死して、自己創造としての、世界の永遠に甦るのである。このことは、永遠に生きんと欲するものは、残りなく感性的自己を放棄しなければならないということである。其処に自覚的生命としての真個に逢着するのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」