抒情詩としての短歌の表現について

 動物の生命は行動的である。人間も動物として行動に於て生命を維持してゆくもので ある。斯る行動は何処からくるのであろうか、私はそこに生命の内外相互転換を見ることが出来るとおもう。内外相互転換とは内を外とし、外を内とすることである。それによって生命を維持するとは外を食物とし、内を身体とすることである。食物は身体ならざるものである。それを捕捉するために身体を動かすのが行動である。

 私は感覚と感情はここに生れるとおもう。我ならざるものを捕捉するために識別がはたらかなければならない。食物として適当なものと不適当なものの撰別がなければならない。感覚は識別作用であると言われる。感覚はそこに萌芽をもつのであるとおもう。食物を捕捉したときそこに身体は充足をもつ、その反対は空虚であり、奪われたときには反撃して取り返さんとする、そこによろこびかなしみ怒りの湧き来る根源があるとおもう。そこに感情があるのである。

 感覚と感情は行動の両端として行動に於て一である。行動に於て一であるとはこの両端を見ることが行動であるということである。感情は主体に即するものとして、感覚は対象に即するものとして相反するものである、相反するものが一つとして行動はあるということである。生命が行動に於て自己自身を維持するとき、行動は生命の具体でなければならない。行動に於て自己を実現してゆくのである。斯る行動がその一極に感覚をもち、反極に感情をもつということは、生命は感覚と感情に自己を見てゆくということである。感覚と感情が一なるところに生命の具体があるということである。

 行動に於て生命が自己を実現してゆくことは、行動は生命形成としての行動である。感覚と感情は生命形成としての両極となるのである。私はそこに感覚と感情の相即的な展開を見ることが出来るとおもう。相即的な展開とは、感覚は感情によって自己の展開をもち感情は感覚によって自己の展開をもつということである。内に感情がはたらくことが、外に多彩な感覚が生れることであり、外に多彩な感覚が生れることが、内に豊潤な感情が生れることである。それが行動に於て一なることが相即ということである。事実として感覚の識別作用は単に物に対するより起るのではない。例えば愛児が風邪に罹ったとき、わずかな力の衰えや、かすかな顔色の変化を識別するのである。われわれが畑を見ても種々な野菜があるなあと思うくらいである。併し栽培者は水や肥料の過不足、日照りや病害等をその葉や茎に見るのである。識別を動かすものは愛であり、愛はよろこびかなしみに現われるのである。よろこびかなしみが識別するのである。

 亦感情は感覚の識別の多様を内にもつことによってより深い自己の陰翳をもつことが出来るのである。画家は色彩の中に色彩を見ると言われる。画家はそれを描くことによって見てゆくのである。識別作用とは創造作用である。画家がチューリップを描こうとして新たな赤い色を見出したということは、視覚的生命をより大ならしめたことである。画家はそこにより大なるよろこびをもつのである。私達はその顕著なる例を陶工柿右衛門にもつ、椽側の板迄焚いたと言われる彼が、目差した色彩を実現したときそのよろこびは如何に大であったであろうか。そして私はその後の彼はこれ迄の感情生活を一変せしめる程の豊かなものをもったとおもうものである。それは勿論視覚に関るもののみではない、味覚に於てもより微妙な味わいを見出した料理人は、そこに言い知れない充足感をもつとおもう。私は豊かな人間とは、裡に何処迄も識別としての感覚を潜めた感情の持主であるとおもう。偉大なる人間とは大なる創作力をもった人間であり、大なる創作とは、大なる識別と統一であるとおもう。

 私は短歌を作るものであるが、短歌ではよく観念と具象が言われる。私はこの観念と具象に、感情と感覚の具体的な姿があるとおもう。観念とは主体の方に成立するものである。私はそこに感情に映された感覚を見ることが出来るとおもう。感情が感覚の陰翳を宿したところに成立するとおもう。識別の多に自己を見出してゆく主体的一の成立が観念であるとおもう。

 それに対して具象とは感覚の識別的多が感情的一を含んだところに成立するとおもう。具象とは一つの全体像である。例えば色彩がいくらあっても具象ではない。そこには意味による統一がなければならない。多の一々が全体の構成者として、全体を帯びるところに多があるのである。識別とは分けてゆくことである。一者が自己の中に自己を見てゆくことである。一者が自己の中に自己を見てゆくことは、見られた一々、識別された一々は全体的一者の姿であるということである。私は識別された一々が全体が孕むところに具象があるとおもう。そこに識別としての感覚的多が感情的一を含むのである。斯るものとしての短歌表現は如何にあるべきであろうか。

 私は短歌は抒情詩として生命形成の主体的方向に成立するものであり、識別されたものの方向ではなくして、識別するものとしての観念の表現であるべきであるとおもう。観念が自己自身を見るところに抒情詩があるとおもう。而して観念の表現なるが故にその内容は何処迄も具象でなければならないとおもう。前にも書いた如く、感情的一は感覚的多をもつことによって感情的一である。そこに感情は陰翳の深さを増すのである。嬉しいという言葉は嬉しい事ではない、嬉しいことを内容として出る言葉である。嬉しいという事は病気の孫の頬に赤さが戻って来たといった事である。それ故にこの場合抒情的表現としては、臥せている孫の頰に赤さが戻って来ただけでよいのである、それで嬉しいということは表現されているのである。生命営むと言ってもそれは何も表わすものではない。春の若芽のかすかな緑の移りを言うとき、そこに生命の営みは語られているのである。

 それは感覚的な識別の方向に見出される物が、物理学的な法則としての一般概念に捉えられるのと対をなすとおもう。自然科学が一般が個を包むのに対して、芸術に於ては個が一般を包むのである。若芽の緑のかすかな移りを見る目は、人類が限りない哀歓の上に養なって来た目である。具象で捉える根底には時間の普遍があるとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」