批評について

 先日井上徳二さんに出会ったら、九月号の私の一首抄に対する苦情が出た。その苦情が亦変っている。私の評釈によって氏の下手な作品が上手そうになったというのである。私はそんなことはないと言った。私は単に麗辞をのみ並べたのではない。評言が立脚すべき美の基準を設定して、氏の作品がそれに適合すると書いた筈である。それは併し氏が言いたかったのは、氏の作意が動いたのは、私の立脚点より次元が低かったということではないかと思う。

 昨日バスの時間に読むべく、オスカア・ワイルドの芸術論を持って出た。其の中に批 評に関する所があって、批評は作品が含んでいる世界を、作者の意図を超えて追求しなければならない。批評は評論家の創作であるといったようなことを書いている。そしてモナリザの例をあげている。それによるとダ・ビィンチは唯線と平面の或る種の按配と、青と緑の未だ曽ってなかったような配合について工夫を凝らしただけだと言っている。それは言外に永遠の微笑は評者の創作であると言っているのであるとおもう。

 全て表現は、人類が過去に創造して来た大なる生命に自己を写すことである。私達はその世界に入ることによって自己を見ることが出来るのである。作者は新たな個性として、状況は変化する歴史的状況として表現は一々異なる。併し全人類のこの大なる創造線に添うことなくして如何なる表現もあり得ないので 我々が如何なる表現にも共感をもち得るのはこの大なる生命の内容としてあるが故である。

 斯かるものとして月々のみかしほ幾百の作品の一々が深大なる世界の翳を帯びるものであその繫りに深浅がある。批評はこの深浅を明らかにすることによって次の創作の一つの礎石たらしめるものであるとおもう。以上井上徳二さんの苦情への答である。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」