感覚

 生命は形成的であり、形成は内外相互転換的である。内外相互転換とは内と外とが対立的に一であるということである。外は内を否定するものであると共に、それによって内が成立するものであり、内は外を否定するものであると共に、それによって外が成立するものである。動物は斯る外を食物として、内を身体としてもつ、食物は我ならざるものである。而して食物なくしてわれわれは身体を維持し得ざるものである。食物は我ならざるものとして、欲するままに得られるものではない。若しそれが欲するままに得られるものであればそれはわれの内容であって、我ならざるものではないといわなければならない。それは常に乖離をもつものであり、努力なくして得られないものである。死を距てて対するのであり、行動によって獲得するものである。獲得することによって死を生に転ずるのである。食物を摂ることが死を生に転ずることである。動物とは生存を維持するために行動を必要とするものである。食物を獲得する範囲を環境として、ここに死生転換をもつものである。環境は死をもって迫ってくるものとして身体に対するのである。

 斯かる死生転換が生命の形成作用ということである。行動に於て我ならざるものを獲得するには身体が技術的機能的でなければならない。行動とは内発的な力で動くことである。内発的な力で動くには自然の重力を否定する意味がなければならない。身体はそのための組織をもたなければならない。行動には対象を把握する機能をもたなければならない。更に獲得した食物を身体に変化せしめなければならない。無数の機能に配分し転生せしめる化学的機能をもたなければならない。形成とは斯る機能構造を整備することである。

 感覚とは斯る形成作用の内と外との接点に於て、内としての身体に現れる形である。それは内外相互転換として身体に実現したものである。

 感覚に於て内としての身体に対する外としての環境に環界と環囲があるといわれる。環界とは身体が生得的な感官で把握される世界であるのに対し、環囲とは生けとし生けるものが同一場所に生存している限り、同一の世界をもつということらしい。例えば一本の木にぴったりと並んだ二匹の異なる動物、小鳥と刺虫がいたと仮定すると、この二匹の環囲は全く同じである。併しこの二匹はそれぞれ相手には全く閉された自分丈の世界に生きているのであると言われている。鳥が大空の猛鳥に気を配り、樹下の小鼠に注意しているに対し、刺虫は殆んど対象を区別し得ない。刺虫は聾であるが、小鳥はこの大気の中に色々な音が満ちているのを聞く。併し小鳥はこの止っている木が柿の木であろうと樫の木であろうと関係なく同じである。刺虫にとってはその葉が食えるか食えないかは、生死を分つ一大事である。感覚は斯る環界に於て内外相互転換的にはたらくのであり、環囲は斯る環界の発展による操作が加わったものであるとおもう。

 斯かるものとして対象と身体の器官は切り離し得ないものである。対象の多彩は器官の精密化によるのである。内外相互転換とは内が自己否定的に外となり、外が自己否定的に内となることである。感覚に於て内が外を映し外が内を映すことである。内が外を映すとは見出したものを内に映像としてもつということである。目を閉じても心像として再現出来ることである。外が内を映すとは心像として維持する間に映像が感情の陶冶を経て、新たな外界像が成立することである。喜び悲しみによってより多彩な陰翳をもつことである。内外を移し、外が内を映すことによって感覚はより豊潤な世界を作ってゆくのである。豊かな感覚とは喜びかなしみによって新たな対象を見出し得ることである。

 世界は感覚によって捕捉され、感覚は内が外を映し外が内を映すところにあるとは、世界は内によってあるのでもなければ外によってあるのでもないということである。内は外を映すことによって内であり、外は内を映すことによって内であるということであり、それは無限に形成的として世界はあるということである。世界の自己形成として感覚はあるということである。よろこびかなしみによってより多彩な外界像が成立するということは亦、より多彩な外界像は内によろこびかなしみを生むということでなければならない。色彩を見るということは視覚のよろこびであり、音を聞くということは聴覚のよろこびであり、触れるということは触覚のよろこびでなければならない。

 感覚は識別作用であるといわれる。識別とは対象を分岐させてゆくことである。斯る分岐とは如何なるものであろうか。例えば視覚というものを考えるとき、視覚の内容としての色彩は外として我ならざるものである。与えられたものとして感受するものである。色彩はそれ自身の体系をもち色彩自身が無限の分岐をもつのである。併し識別作用は何処迄もこの我がはたらくものとしてあるのでなければならない。外としての色彩が色彩自身を分つことが識別作用としてのこの我がはたらくのである。私はここに感覚があるとおもうものである。世界の自己形成として感覚があるとは、対象と我とが感覚によって実現されてゆくのである。対象と我の統一としての全存在が自己を見てゆくのである。

 私はこれを生命形成に求めたいとおもう。生命は海中に単細胞として発生し、三十八億年の時間を経て現在地上に現われている姿になったという。その最初の内外相互転換は如何なるものであったであろうか。恐らく明らかな内外の別を持たない混沌とでも言うべきものであったであろうとおもう。それがやがて分化し、外の刺激を受取る中心が感官として出来たのであろう。最初に出来た目は何を見たのであろうか、それは鈍い光が宿す敵と餌であったであろう。そしてこの食物連鎖としての敵と餌の、逃走と捕獲が空間を拡大し形相を明らかにしていったのであろう。動物の身体はその形を逃走と捕獲にもち、行動的空間を切り拓いていったのである。視覚とは斯る行動的空間の外に対する内の核である、全身的な外との接受が、外が拡大するにつれて精緻な機能を要し、一点に機構をもったところに目の発生があるのである。

斯るものとして感覚に於ては内が外であり外が内である。行動の拡大は空間の拡大であり、空間の拡大は視覚の精緻化である。外が外となるには内が内となるのである。外が外となるとは外が内面的発展をもつことである。外が物として物自身の発展をもつのである。而して斯かる内面的発展は内を媒介とすることによってもつのである。

 感覚と知覚は明確な境界をもたないといわれる。空間を拡大し、感覚を精緻化するのは知覚のはたらきであるといわなければならない。生命は形成作用であり、形成は合目的的である。この合目的的であるところに知覚はある。内外相互転換は形成作用として合目的的である。而して感覚もここに成立する。視覚がより精緻になるとは合目的的形成作用であるということである。内外相互転換とは生命は内外相互転換的に自己を形成するということである。斯る内外の接点として形は何処迄も感覚に於て見られるのである。知覚の明確化は感覚の発展であり、感覚の明瞭化は知覚の形成的発展である。而して感覚の明瞭化とは環界の拡大ということである。生命形成とは環界の拡大多様化ということであり、身体の機能の精緻化ということである。それは感覚の内容として露わとされるのである。感覚が担うのである。

 感覚が鈍いという言葉がある。そしてこの言葉を担うものとして金銭感覚、事業感覚、 美的感覚などが言われる。斯る感覚はわれわれが普通に感覚とする視覚や聴覚亦は触覚と異なったものである。併し私はそれが同じ感覚という言葉で捉えられるのは全然異質のものではないが故であるとおもう。否私は感覚が知覚の生命形成の内容となったものであるとおもう。内外相互転換として外を内にするとは、例えば食物を身体に変換することである。そこには否定と肯定、断絶と飛躍がなければならない。斯る否定と肯定、断絶と飛躍が人間に於ては自覚的生命として外に物となり、人間は内として製作的生命となるのである。われわれの生命は内外相互転換の接点を物と製作的としてもつのである。物と製作的生命としての内と外との接点は、無限に内が外を映し、外が内を映したものとして無限に外が多様となり、内が研ぎ澄まされたものとなるのである。私は鋭い感覚、繊細な感覚に於て真に感覚は本来のすがたを現したものであるとおもう。

 私達の生命は製作的生命として、私達の目は単に与えられる目ではない。目の前に望遠鏡や顕微鏡をつけて見る目である。私達の少時宇宙には十万の太陽系のような星があると言われた。それが今では一兆個の一兆倍の星があると言われる。亦分子は物質の最小の単位であると言われた。併し現在ではその中にさまざまな物質が発見されている。全てより精密な器具の製作によるのである。器具は外に映した内の発展したものである。望遠鏡、顕微鏡は製作的生命の目であり、自覚的生命の視覚である。私はわれわれはそこに感覚を もつのであるとおもう。われわれの感覚は単に与えられたものを見るのではない。製作を媒介としてあり得べきものを見るのである。内的映像として想像に於て見るのである。豊かな内的映像の創出とその表現が感覚となるのである。鋭い感覚とか豊かな感覚とは斯る内的映像と外とが結びつくことである。結びつくとは表現されることである。

 内外相互転換的に生命が自己を形成するとは、内外相互転換の一々が蓄積されるということである。動物は斯る蓄積を身体にもつ、動物の身体は長い営みの総計である。それに対して人間は蓄積を言葉にもつ、それは記号として一個一個の身体の生死を越えたものである。同じ環境の困難に直面しても動物は一回一回が身体の反射によるのみである。それに対して言葉をもつとは過去の経験、他者の経験のさまざまの対応の中から最善とおもう行為がもてることである。それは身体が身体を超えることであり、身体の延長としての道具をもつことである。道具をもつことは外を作ることであり、道具によって外を作るとは道具は外を利用したものとして外によって外を作ることである。外が内を映し、内が外を映したのである。そこに生命は創造的生命となるのである。感覚は創造的生命の感覚となるのである。作るものとして表現への感覚となるのである。

 表現への感覚は、内外を映すことが外が内を映すものとして、外を作ることが内を作 ることである。われわれの感覚は全宇宙に対するということであり、全宇宙はわれわれの感覚に対するということである。われわれの感官が全宇宙を拓いたのであり、全宇宙はわれわれの感官を構成したのである。感官なくして宇宙があるのではない。宇宙は生命発生以来の人類の生命が感官の精密化によって見出したものであり、感官は宇宙の自己展開として精密化したものである。機器は感官ではない。併しミケランジェロが「私の目はのみの先にある」と言った如く、内外相互転換がそこにはたらくとき感覚は大脳の奥底よりそこにはたらくのである。

 感覚は一人一人がもつ、一人一人がそれ自身に完結し他者に代ることの出来ないものである。このことは一人一人が全宇宙に対応しているということである。而して感覚は宇宙の構成であり、全人類の創造の影である。宇宙も全人類も個を超えたものである。それが一人一人に映されるということは、個を超えたものが個に於て自己を見るということでなければならない。無数の一人一人が宇宙を映すところに宇宙があるということでなければならない。而して無数の一人一人は一人ではない。無数の人が宇宙を映すとき宇宙は無数の人々を統一するものとして一者の意味をもつのでなければならない。パスカルが言った「周辺なくして至る処に中心を有する円」というのは斯かるものであるとおもう。

 一人一人が宇宙を映し乍ら、一人一人が宇宙を映すことが宇宙が一であるとは宇宙は無限に形成的ということでなければならない。一人一人は宇宙を映すものであって宇宙そのものではない。一人一人が宇宙をもつとは、宇宙の一を否定するものである。而してそれが宇宙の一を実現するものであるとは、宇宙は自己の中に自己の否定をもつことによって自己を維持し、自己の形を実現してゆくものでなければならない。否定するとは形が消えてゆくことである。而して形が消えてゆくことが新たに宇宙を映すことによって消えてゆくものとして形の実現である。無数の人が面々相対するとき、消えてゆくものは現われるものであり、現われるものは消えゆくものとして絶対の無が絶対の有であり、絶対の有が絶対の無である。絶対の無とは否定によって消え去ったものであり、再び現われることなきが故に絶対の無である。絶対の有とは事実として現前するが故に絶対の有である。そこに形より形へがあるのである。

 形より形へとは生命がより大なる中心へと歩を進めることである。一人一人が宇宙を映し、面々相対する否定と肯定によって、形より形へと歩を進めるとは、映した宇宙に一人一人の体験を加えることである。一人一人が与えられた宇宙に自分の言葉を加えることによって新たな物を作ってゆくことである。見られたものが見るものとなるのである。見られたものとは、この我が映した宇宙として、無数の一人一人が映した宇宙に於て面々相対するとき、宇宙はこの我に於て見るものはたらくものとなり、無数の一人一人は相対する世界に於て物を製作するのである。見られたものとは山水であり、花鳥であり、山川であり、商品であり、建築物であり、交通機関その他である。見るものとなるとは無数の人間の交叉に於て芸術の内容となり、経済発展の内容となることである。宇宙はここに歴史的世界として自己を実現してゆくのである。そして感覚は表現的世界の感覚として価値感覚となるのである。

 生命が生死するこの我を超えて無限の過去と未来を有し、宇宙が宇宙を見るところに形より形へとしての生命があるということは、無限の時間と無辺の空間は生命が自己自身を見出でたものとして、生命の根底に霊性とでも言うべきものがなければならないとおもう。全てがそれによってあるものである。全てがそれによってある故に形なきものである。形なくして形を生むとは動的ということである。唯一者が多として出現するということである。動的とは一者が内に多を含み、多が相互否定的に対立することであり、相互否定的に形成することである。一即多、多即一である。それは所謂霊能者といわれる如き人々の語る特異の世界ではない。歴史的事実として出現する世界である。形なきものは見るべからざるものである。それは自己の底に直観すべきものである。故にそれは日常の一々の底にあるのである。多としての個は一々の行為に於て、霊性としての一者につながることを感ずることによって生の確信をもつのである。全歴史を包むもの、初めと終りを結ぶものとして自己があることを見ることによって生の確信をもつのである。それは何処迄も一の多の自覚として自己の底に見るべきものである。霊性の自覚は絶対の無に於てつながることの自覚である。感覚は斯る形成の否定的転換の尖端に於て見られるのである。故に形成は感覚の精緻化として具現するのである。感覚は斯る形成を担うものとして事実としての自己の確信をもつのである。勿論それは感覚が見るのではない。感覚は全存在が自己自身を見る内容としてあるということである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」