生命は本能的であり、本能は衝動的である。生命が衝動的であるとは如何なることであろうか、広辞苑によれば衝動とは人の心や感覚をつき動かすこと。反省や抑制なしに行動すること。また、その際の心の動き。と書いてある。生命は無限に動的である。私は生命が動的であるとは断るつき動かすものを内にもつことであるとおもう。つき動かすものはつき動かされるものを超えたものでなければならない。超えたものとは動かされるものは動かすものによってあるということである。生命は形作るものである、形作るとは生長としての変化をもつことである。変化をもつとは自己の中に否定を含んだものである、否定するものはより大なるものでなければならない。変化を超えて変化を自己の現れとするものでなければならない。即ちつき動かすものは、つき動かされるものを自己の現れとして生長と死滅に於て形作るものでなければならない。つき動かすものは生命を生長と死滅に於て形作るものとしてつきうごかすのである。
私達は個体として人類の如きが断るものを担うのではないかとおもう。併し人類も生命形成の中より現われたものである。生命形成の三十八億年の中の近々数百万年以前に現はれたものである。変化の中に現われたものであって変化を現わすものではない。私は更に深く根底に還らなければならないとおもう。宇宙は爆発によって初まったと言われ、最初は素粒子のみであったと言われる。それからヘリウムと水素が生じ、やがて分子が出来、分子から生命が発生したと言われる。斯る新たな形が次々と生れたということは宇宙は形成作用としてあるということであるとおもう。形成作用とは、素粒子は分子となるべきものをもち、それを実現していったということである。更に生命となるべきものを胚胎していたということである。それらは全て可能性としてあったものが実現したということである。内に見出したということである。自己の中に自己を見出したということである。
斯る自己の中に自己を見るということが新たな形が生れるとは如何なることであろうか、私はそこに対立と統一の矛盾関係を見ることが出来るとおもう。先に言った如くわれわれは個体としてある。個体としてあるとは個体と個体が対立するものとしてあるということ である。対立するとは相互否定的としてあるということである、相互否定的とは対立するものを変革するものである、そこは常に新たな形の生れるところである。併し個体は対立するものとして、対者によって変革されるものとして自己の中に自己を見るものではない、自己の中に自己を見るものは対立を包んで対立を自己とするものでなければならない。私は斯るものを宇宙的生命に求めたいとおもう。創成のときより自己の中に自己を見ることによって今日のこの我をあらしめたものに求めたいとおもう。私は衝動というものも斯る所にあるとおもう、宇宙の始めより宇宙の動き来った力がつき動かすのである。本能は斯る形成力としてわれの知らざるところよりわれを動かすのである。
私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは突然異質なる生命が出現することではない、衝動的、本能的に生を営む生命が自己を見、自己を知る生命となることである。自己が自己を見るとは見る自己と見られる自己に自己が分れることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう。生命は生死としてある、生死とは内外相互転換的に形成することである、外を食物としてこれを身体に転換することである。生命は食物的環境と身体の綜合としてあるのである。綜合として生れるとは、食物的環境の中に生れるのである。食物的環境を外としてこれを内に転換するとは労することである。斯かる労力を少なくせんとするのが経験の蓄積である、少くするとは同じ労力をもって多くのものを獲得することである。獲得は時空を異にするものとして一回一回手段を異にする。蓄積するとはそれを前回獲った手段を今回に応用することである。例えば川があった為に獲物が逃げられず捕えたとする、すると次回は川の方へ獲物を追い立てる如きである。木の枝で打ったら獲物が仆れたので次は棒をもって行く如きである。
それは時間を超えて時間を包むものとなることである、衝動は一瞬一瞬の内外相互転換としてはたらくのである。本能は現在の身体の欠乏と充足に於てはたらくのである。時間は一瞬より一瞬へと転じてゆく、時間を超えて時間を包むとは斯る一瞬を内容として統一するものとなることである。一瞬一瞬は衝動として、本能として生命形成的である。斯かる生命形成を外にして単なる時間があるのではない。統一するとは外を内によって変革し、内外によって変革することによってより密度高い内と外とすることである。棒をもつとは棒を手の延長とすることである、延長とすることによって身体の機能をより大ならしめることである。それと同時に木を身体の内容とすることは外を変革したことである。それは更に外を身体の延長として利用せんとすることであり、環境を身体化せんとすることである。ここに私は見る我と見られる我の生れるところがあるとおもう。時を統一するものが見るものとなり、一瞬一瞬の形成が見られるものとなるのである。私は人間の身体を斯るものに於て見たいと思う。人間は言語中枢と手をもつことによって人間になったと言われる。言語中枢をもつことによって一瞬一瞬の経過を蓄積し、過去として記憶をもち、未来として理想をもつのである。手によってそれを実現するのである。身体は個体として対立するものである。併しそれは形成するものである。私は言語中枢をもち手をもつということは本能衝動の個体保存的身体より世界形成的身体に転じたものであるとおもう。自他の対立が形成的統一に向う身体となったのである。それは否定が奥底にもっていた統一が自己を現わさんとすることである。否定と闘争を内に見るものとして世界形成的となることである。私はわれわれの自覚はそこより来るとおもう。世界形成的として世界を映し、世界に映されるところより来るとおもう。人間が自覚的生命として、私は愛も亦生命が自己自身を見るところにあるとおもう。対立的に相互否定し合う生より、統一に自己を現わさんとする生命になったということが愛をもつ生命になったのである。言葉をもち、手をもったということが愛する生命となったということである。身体が世界形成的に転じたということは、対立する我と汝が世界を内にもつものとして相対するということである。そして斯る対立が世界であるということである。我と汝は世界の中にあるものとして世界を自己の中にもつのである。それは我と汝が世界を内にもつものとして対立することが世界が世界を形成してゆくということである。世界を内にもつものとして我と汝が対立し、世界実現的に争うことが世界が形成をもつということである。世界が形成されるということは世界を内にもつものとして自己を形成してゆくことである。我と汝が対立し、汝によって我が否定されることが我が生かされるということなのである。その逆も真である、そこは他者の中に自己を見、自己の中に他者を見るところである。そこに愛があるのである。
情緒とは身体が形成的に衝動的であることである。斯る衝動は先にも書いた如く世界の自己形成より来るのである。身体は個体として出現する、そこに於て情緒は世界に対する個体保存的である。斯る身体はその形成に於て世界関連へと成熟してゆくのである。根源的なるものが現われてくるのである。言葉と手をもつ身体となるのである。形成の根源的なるものの内容となるのである。そこに自覚がある。愛とは世界へと転じた身体の根源的情緒である。身体的形成の根源としての世界形成の情緒である。それは根源的情緒として原始的情緒に新たな陰翳を与えるものである。喜怒哀楽の如く特有の表出があるのではなくして、それに世界形成の陰翳を与えるのである。身体の衝動的形成の深化として愛は更に深く衝動的である。愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのである。知らざる声に呼ばれるのである。それはわれわれがそれによってあるものの深さより聞こえてくるのである。愛は惜しみなく与えるという言葉がある。それは自己保存の欲求的自己より見れば百八十度の転換をもつものである。喜怒哀楽はそこより来る喜怒哀楽となるのである。喜びは与うる喜びであり、怒りは与えざりし自己への怒りである。哀しみは与うるものなき哀しみであり、楽しさは与え切ったものの楽しさである。そこに世界に生きる姿があるのである。そこに世界が現われるのである。惜しみなく与えるとは自己を滅して対象の中に生きることである。他者を明らかにすることである。他者と我との世界として、他者を明らかにすることは世界を明らかにすることであり、世界を明らかにすることは我を明らかにすることである。 愛は世界実現的である。
私は斯るものとして愛は人格的でなければならないとおもう。人格とは世界の中にあるものが逆に世界を内にもつことである。世界が自己の内容として自己を形成することは逆に内容が世界を現わすことである。われわれは世界形成の内容として世界を表現するのである。斯る人格は個性的でなければならない、全てのものが同一なるところに世界はない。異なったものが世界をもつものとして、自己の世界を実現せんとするところに対立があり、それが対話に於て一なるところに世界形成があるのである。対立が一であるとはわれわれは社会生活を営むものとして、社会の無限の分化によって生きているということである。衣を作るもの、食を作るものを作るものと特化し、それが更に無数に特化し、それによってこのわれは生を保っているということである。無数の人々との関連によって一人一人が生きているということである。個性とは斯る世界連関の中に自己の最も良く生き得る所をもつことである。われわれは職業をもつことによって人格となるのである。世界を内にもつとは製作物が流通連鎖によって世界に関ることである。製作するものとしてわれわれは世界を内にもつのである。前にも言った如く世界を内にもつとは世界がこのわれによって実現しているということである。われわれが職をもち、物を作るということは無限の過去と未来が現在に於て実現したということである。素粒子よりはじまり、無限の未来へ転じてゆく宇宙的生命の現在点としてわれわれは物を作るのである。永遠の実現として、無限の時間を内にもつものとして人格はあり、人格の尊厳はあるのである。禅家に平常底という言葉がある。平常とは日日の営みである、服を着け、飯を食うことである。伝票に記入することであり、野菜に肥料を与えることである。底とは、その根底に至ることである。日日のはたらきをあらしめるものを把握することである。言葉によって表現し、体現に於て行動することである。
世界とは人類の表現的空間である。世界を作るものは無数の我と汝である、斯るものとして私は愛が最も深く表われるは我と汝に於てであるとおもう。我と汝というのがそもそも一つの世界に於て見られるのである。形成的世界に於て対立が一として我と汝があるのである。斯る世界の自己実現として互に相対するものの個性を認め、互の世界を育て合うのが愛の実現である。私達は自己の生れ来った所以を知らない。斯く生れんとして生れたのでもなければ、親は斯の産まんとして産んだのでもない、言われる如く神の授りものと して生れたのである。それが斯る個性を以って生れたのである。そのことは神が自己の姿を顕わすものとして生れたのである。個性をもつとはその性格的方向に世界を表すべく行動するものということである。世界は個性に於て自己を露わにしてゆくのである。個性的に世界は自己を実現してゆくのである。
対立が統一の内容となるといっても対立が無くなるのではない、否統一を内にもつ対立 として、愈々大なる対立となるのである。 受験競争、開発競争、企業間競争は世界を内にもつもの、言葉を内にもつものとしての対立である、対立は質的転換をもつのである。そ れは絶えざる競争である。形成はどこ迄も対立の統一である。世界を内にもつということ は力である。単に本能に生きるより、自己を世界の中に消して新たな形を見出すことはよ 大なる力を必要とするのである。私はそこに祖母の孫に対する愛、亦は肉親愛と言わる るものの真の愛でない所以があるとおもう。男女、母子、祖母と孫の愛は完結的であり、閉鎖的である、それは外へ出でることを拒否するものである。独占を要求するものであるそれは言葉のもつ世界性と相反するものである。それは本能の残滓を濃くもつものである。勿論本能も宇宙的生命の自己形成の内容として出現したものである。併し自覚的生命はその上に自己を見出したものである。自己完結的なるものは欲求と充足としてある、そこにあるのは繰り返しである。言葉は創造的形成である。自覚的として言葉をもつ生命はその成長に伴って自己完結的世界に耐えられるものではない、ここに私は転換が要請されるとおもう。対抗と緊張によって形成する世界へと転ぜなければならないのである。世界形成は力であり、個性を打ち樹てるとは力の所有者となることである、世界を内にもつとは努力である。私はここよりわれわれの愛の形は来るとおもう。世界の自己形成の内容としての我と汝として、我は汝に、汝は我に何処迄も深く自己の中に世界を見ることを要請しなければならないのである。本能的欲求的残滓を捨てて内に獲得した世界を以って対話することを求めるのである。既成の安易を捨てて新たな展望への努力を求めるのである。「可愛い子には旅をさせ」という言葉があった。昔旅をさすということは他者の中に放り出 ことであった。庇護なき所に生きてゆくことであった、そこに生きることは世の中の体得であった。そしてそれを子を愛する真の道と教えたのである。私はここに自覚的生命の自己形成があるとおもう。旅に出すとは豺狼の中に入れるようなものであった。それは肉親の情として忍び難いものである。併しそれを超えて出すべく世界が要求するのである。一個の人間が世界の形成要素として、世界がより大なる自己の形相を見ようとするところより要求するのである、そしてそれに応えるのがその人の成長である。そこに愛は自己の深層を具現するのである。
私は前に愛せんとして愛するのではない、愛せざるを得ないものとして愛するのであると言った。そのことは愛せんとすることが空虚であるということではない、愛せんとするものの根底に愛せざるを得ないものがあるということである。世界を内にもつものとなるとは意志をもつものとなることである。意志をもつものとなるとは内にもつ世界を実現せんとするものとなることである、そこに自己がある、われわれは行為するものとなり意志決定者となるのである。そこに於て愛せざるを得ないものは愛するものとなるのである。宇宙的自覚がこの我に於て実現するとき、愛せざるを得ない衝動は愛することによって実現するのである。世界形成としての我と汝は何迄も対立するものである、対立するものは否定し合うものである。それは何処迄も憎しみである。愛は生命の自覚的出現として純一である、併しそれを実現する身体は形成的として過去を背負うものである。われわれが母の胎内に於て最初に現れるのは水棲動物の形態の残痕であると言われる。それから両棲類の形をもち、哺乳類の形となり、生れたときは類人猿に似ると言われる。生命発生より人類が辿ってきた発展の系譜を全部体現すると言われる。身体が斯る系譜を内蔵するとき、情動は無限の過去の熔炉としてあると言わなければならない。愛が自覚的形成の情緒であるとは、斯る混沌の光被として出現したということである。それは過去を内容として形相を転換することである。本能は理性に照して混沌である。本能を新たな光りに照し出すことなくして愛の内容はない、内容のないものは何ものでもない、実現する愛とは対立するもの、憎しみ合うものの形を転ずるものである。
生命は一々が完結的である、完結とは外と内とが対立しつつであるということであ る。蛙の形は内外相互転換的に見出して来た時空を包む形である。道元は魚を以水為命と言い、鳥を以空為命という。そこは生きるものの自らなし来ったものである、内外相互転換の生命の表出が情緒である、情緒は身体の営みの表れである、犬の情緒は犬の生の表れである。その表れをなくしたとき、犬は死せるものとして犬ではなくなっているのである。乳幼児が類人猿に似た形をもつということは乳幼児は尚類人猿に似た情緒に生きるということである、本能的ということである。乳幼児の生命の完結は肉親との関りということである、肉親の情緒に生きるのである人間のみがもつと言われる言語中枢は遺伝であろう、併し言語は遺伝ではない、学習である。成長するとは学ぶことである、学ぶとは個として生死するこの我を超えた形相を我の内容とすることである、理性的となることである、秩序を学ぶのである、技術的構成的となるのである。ここに自覚的形成が本能に対して光被となる所以があるのである、自覚的となるとは本能的なるものが秩序的構成的となることである、本能的行動をより大なる生命形相に組織するのが自覚的形成である。
学ぶことが技術的構成的であることは最早遺伝的伝達を超えたということである。学ぶ者に対して教えるものがあるということである。本能の本に築かれたものとして、言葉そのものが生の形態として最初それは肉親が担う、併しそれはやがて生産体系としての技術に長じた者が師とし教えるものとなるのである。そこに肉親を超えた社会人としての我の確立を見るのである。そこに師弟愛が生れる、それは技術に生きるものとして世界を内にもつものとしての意志実現であり、世界を介して結ぶ愛である。技術は世界の自己形成として無限に深い、それを学ぶことは努力であり、苦痛である。師の愛は習得せしめんが為に叱る愛となり、鞭打つ愛となるのである。学ぶものの愛は師の中に潜められた世界の深さへの尊敬の情となるのである。世界を内にもつものとして、人格として、意志として愛するものとなるのである。私はここにより大なる生命としての愛の発現があるとおもう、愛するものとしての愛の深化があるとおもう。人格愛に於て愛は本来の相を現わすのであ る。肉親の愛も人格愛となることによって愛を完成するのである。それは親の子、子の親 でありつつ世界を内にもつものとして世界形成的な対話をもつものとなるのである。
神は万物を愛によって創ったと言われる。愛によって創ったとは如何なることであろう か、私はそこに万物の一々が宇宙を映すことによってあるということが言えるとおもう。全てあるものは対立するものとしてあるのであり、対立するものは否定し合うものとしてあるのである、否定し合うとは対手の形を変革するものである。変革するとは新たな形が生れることである。新たな形が生れることが宇宙の形成作用である、対立するものが変革し合うことは、対立するものが互に相手を映し合うことである。互に他を自己の内容とすることによって密度高い形が生れるのである。密度高いとは秩序をもつということである。生命の世界に於ては生存競争による新たな機能の獲得をもつ、新たな機能をもつとはより大なる行動力をもつことである、そこにより大なる時間・空間が生れる。それが宇宙が自己の中に自己を見ることであり、宇宙の創造である。われわれは機能をもつもの、行動するものとして常に内と外はこの我に消え、この我より出ずるのである。そこに我は宇宙を映し、宇宙は我を映すのである。一瞬一瞬は我をあらしめるものと一体である。斯る生命がわれわれに於て自覚的である。それは宇宙的生命の自覚が我の自覚であり、我の自覚が宇宙的生命の自覚である、われわれはそこに宇宙の無限の時間に生きる自己を知るのである、そこに大きなる愛に抱かれた感情をもつのである。斯る感情は何処迄も我と汝の対立として作られたものとして、我は汝に感じ、汝は我に感じるのである。更に我と汝をあらしめたものとして全人類に感じ、人類をあらしめたものとして全生命に感じ、生命をあらしめたものとして全宇宙に感じるのである。
みみずの宇宙はその行動の及ぶところの、感覚の受容する範囲である。その感覚の受け取ったものが宇宙の様相である、それはわれわれ人間の多様より言えば言うに足りないも のである。併しそれによって他を変じ、自己を変じてゆくのは宇宙の自己形成としてあるのである。みみずの形態は宇宙の自己形成の一つの完結としてあるのである。それはわれわれの身体が宇宙の一つの完結であるのと同じである。みみずは勿論その解剖的結果から 押して愛の感情を持たないであろう、併しわれわれ人間は自己の中に大なる時間・空間の 完結に感じる神の愛より押して、みみずの持つ宇宙の完結に神の愛を見るのである。西洋の人は天なる星と、内なる道徳律という、天の整正と、我の整正、そこに万物を作った神の愛を知るのである。
我と汝の対立が一として宇宙的生命の自覚的形成があるとは、この我、汝の一々が宇宙に対応するということでなければならない。対応するとは全宇宙が自己に現れるということである。宇宙の自覚はこの我の自覚にあるということである、ここに自愛が生れる、われわれは宇宙的生命の表れとして自己を尊敬するのである。断る表れは対立するものとして、汝を我に映し、我を汝に映すことによってあるものとして、同時に汝を我の成立の根底として愛するということでなければならない。それは何処迄も宇宙が宇宙自身を見るものとして同時である、併し対立するものとしてこの我より見るとき、汝によって我を見るものとして汝への愛がより根底となるのでなければならない。道元は利他を先とすべしという。この我の生命の成立は宇宙が自己を見るところにあり、この我は宇宙的生命の内容として他者を根底にもつところに利他を先とすべしという命題は現れるのであるとおもう。利他を先にすべしとはこの我の利益が失われることではない。汝はこの我の利益を先とするのである、愛に於て相互が自己を捨てて自己の根底に還るのである、そこに世界が実現するのである、世界が世界を見るのである。宇宙的生命は人類に於て世界として実現するのである。われわれはそこに神の愛を知るのである。
長谷川利春 「自覚的形成」