想起について

 ソクラテスは我々が物が互いに等しいのを知るには、等しい事自体、即ち等しさの本質を知っていなければならないという。無から有は生まれて来ない。我々が知るというには何等かの意味で既に有るものが働かなければならない。而し相起も亦知る事ではない。知るという事は何処迄も現在を限定するということでなければならない。新たなものがなければならない。新たなるものによる新たな体系の創造が知る事であると思う。而し新たなるものといっても突出的にある事は出来ない。既にあったものが働く、其処に新たなるものがあるのでなければならない。知るということは過去と未来が現在に於いて唯一形相を実現する事であると思う。過去と未来は何処迄も相反するものである。過去は未来でない事によって過去であり、未来は過去でない事によって未来である。過去は未来を否定する事によって過去であり、未来は過去を否定する 事によって未来である。相反するものが一つであるとは如何なることであろうか。

 物理学は筋肉覚、関節覚の無限の発展であると言われる。無限の発展とは身体とし ての筋肉覚、関節覚を超えて力の表出がそれ自身の内面的発展をもつ事である。私は其処に知る事が成立するのであると思う。身体が身体を超えて外に身体の形相を打樹てる、それが私達の知るという事であると思う。身体が身体を超えて外に身体を見るということが世界を作るという事である。知るとはこの世界に映して知るのであると思う。

 大彫刻家ロダンは道を行く一少女を指さし乍ら「あそこに全フランスがある。」と言ったという。全フランスとは、フランスの自然と人間が作り上げた生命の姿であると思う。我々の身体は無限の過去をもつのである。単細胞動物より人間へ、はかり知る事の出来ない時間の上にあるのである。環境との相克の中に形より形へとして今の我々はあるのである。それは単に過ぎ去ったものでない。我々が今あるとはこの全時間が働いているという事である。我々が歩くのも、見るのも、この全過去が働いている事によって初めて可能なのである。天地創造以来の宇宙的生命の、自己創造の一凝縮点としてあるのである。一凝縮点として全存在を内にもつのである。

 人間が自覚的生命であるとは、斯る生命が自覚的である事であると思う。自覚的と は外に見る事である。外に見るとは身体を超えて見る事である。力の表出がそれ自身の内面的発展をもつという事は、単細胞動物より人間へと、無限の形相の展開を持った生命が自覚的である処に成立すると思う。我々の身体的生命がすでに形より形へと無限の変遷を内とするものであり、それが自覚的として外に自己を見る時、物理学の内面的発展として原理が原理を呼んでゆくのであると思う。創作として美が美を生み、思惟として真理が真理を呼ぶのも斯る処より考えられるのでなければならないと思う。動くものは矛盾的にある。矛盾するものは相対立するものである。人間は自覚的として、相対立してあるものから斯くあるべきものを見る。自然的生命を裁断する。裁断するとは逆に全存在を自己の内容として、自己を世界創造の出発点とする事である。斯くあるべきものによって世界を作ることである。而し生命の大なる流れの一点としてあるものが大なる流れ自身であろうとしても徒に混迷の中を彷徨するのみである。ソクラテスの無知とは世界に我が運ばれる事であり、知とは我が世界を運ぶ事であったと思う

 自覚的自己が深くなるとは、世界を運ぶ我が、その根底の世界に還ってゆく事である。無知を知る事は更に大なる自覚である。其処に想起があったと思う。想起とは過 去と未来が現在に於いて現前する事である。其処は時が生まれ、時が消えてゆく永遠の所在である。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」