心経私観補遺

 何時であったか、長野県の旅館に泊まった時に、箸袋に色即是空、空即是色と印刷 してあり、その横にこの世界は仮の世であり、苦しみや悩みは迷いに過ぎないと書い てあった。よく空や無という時に世界は無常であり、生まれては消えていくものであり、本来無いものであると言われる。

 果たしてこの世は仮のものであり、私達は本来無いものであろうか。本来無いものならば今この文字を書いている私の存在を如何に説明するのであろうか。仮の世に生きて本来無いものに何処から苦しみや悩みが来るのであろうか。心経にも五蘊皆空(ごおんかいくう)なりと照見して一切苦厄をし給うと書いてある。本来無いものならば皆空なりと照見する事はない筈である。五蘊はあるものであり、あるものは矛盾的にあり、苦を内包するが故に空と照見して苦厄を済したというのである。五蘊はあるものであり、空と照見する事によって自己自身を超越するものでなければならないと言い得ると思う。

 苦とは何か、それは有るものが無くなる事であり、かく有りたいと思う事が実現しない事である。生者必滅、会者定離であり、病、老、死である。生命は常に死と対面しているものである。斯る死を生に転換するのが私達の働きである。例えば稲に水をやらなかったら稲は枯死する。稲の枯死は亦農作者の死である。池を掘り、溝を作り、水を導入するのは生への転換である。生命が死を内包する事は矛盾であり、働く事は苦である。限り無い生死の転換は苦の海である。後の世であり、本来無いものであるならばこのように苦しむ必要はないであろう。

 斯る苦を救済するものは生命の永遠の自証でなければならない。私の苦しみは不死 であると知る事によって済度(さいど)されるのである。老、病は死の淡き影であり、亦然りである。働く事の苦も限り無い生死の転換としてではなく、永遠なるものの現れとなる時に歓びとなるのである。五蘊の無常の苦を度す空とは斯る永遠の形相を持つものでなければならないと思う。

 生死するものは永遠なるものではない。永遠なるものは生死するものではない。それは相反するものである。相反するが故に苦悩はあるのである。而し相反し、対立する処に救いはない。皆空なりと照見して一切苦厄をし給うには、生死するものが永遠なるものと一つとならなければならない。対立したものが寄り合うと言うのではなく、直に一つであるのでなければならない。色即是空である。この色と空は私達が日常使う身と心という言葉を使ってもよいと思う。身即心、心即身である。心は身に現れ、身は心を現わすのである。この言葉によっても明らかな如く、この相反するものが一つであるとは空が色を摂取する事によって一つとなるのである。それは捨身行に於いて一つとなるのである。佛陀五年の苦行によって人類はこれを得る事が出来たのである。

 私観に於いて言った如く永遠は世界として自己自身を実現する。而して世界は自己自身の動きを持つ、時代の流れという言葉がある如く世界の動転は我々を微塵の微少とするものである。無限の過去を含み、無限の未来を孕んで、この過去と未来の激突によって動いていくものである。而して無限の過去と未来を持つが故に世界史的現在として、永遠の今を実現するのである。歴史の本質は過去より未来へではなくして現在より現在へであると言われる所以である。捨身行とはこの我がこの永遠の今の具現者となる事である。私達は自分の中に永遠の過去、永遠の未来を照見して救われるのである。

 世界は全存在の具現者として世界である。それならばなぜ空というのであろうか。世界は自身形を持たない、色としてのこの我や汝が世界を作っていくのである。レーガンや中曽根は何処までも世界の流れに随う。而し中曽根、レーガン会談は世界を作っていくのである。リーダーは世界の目となる事によってリーダーである。リーダーの みではない、全ての人は世界の目となり、世界の身体となる事によって自己を持ち生きていく事が出来るのである。世界が自己を具現していくとは斯く具現していくのである。形なくして形を実現していく故に空と言うのである。形なくして形を実現していくが故に全存在たる事が出来るのである。

 心経の冒頭に観自在菩薩と書いてある。私達が宇宙の一微塵とも言うべき身に永遠 の全存在を持つ事が出来るのはこの観に於いてであると思う。人生観、世界観、宇宙 観、観に於いて私達は雑多なる世界を唯一者の相下に見る事が出来るのである。そしこの観とは無常なるものが永遠なるものを内に持つ処に成立するものである。迷い なくして悟りはない。迷いはまだ世界となっていないこの身が世界となろうとする陣痛である。

 もとより永遠を見る者も死ななければならない。生きる限り槿花一朝の悲しみを持たざるを得ない。而してこの悲しみが常に永遠への回心を呼ぶのである。色即是空、 空即是色の最も深い意味を私はここに見る事が出来ると思う。其処にあるのは哀歓を超えた静かな微笑である。ともあれ私は人間生命の深さ、不思議さに驚嘆の念を禁じ得ないものである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」