庭前の柏樹子

 禅家の問答に、祖師西来意という問いに対して、庭前の柏樹子と答えたというのを読んだことがある。祖師というのは古代の中国に禅を持込んだ達磨大師のことらしい。西来意というのは、西方の印度から苦難の道を経て中国へはるばるとやって来た志は何であったかということらしい。それに対して庭前に生えている柏の樹とは、われわれより見れば全く意表を衝かれた答である。一体これで答になっているのかとおもう。併し更に考えて見れば、その中には深い意味が含まれているようにおもう。

 庭前に生えている柏の樹はわれわれの対象としてあるものである。この我が見ることによって、この我の認識の内容となることによってあるものである。この我が見も、触れもしないものであったら何うして柏の樹はわれわれに存在することが出来るであろうか、ここに認識論に於ける独我論の基盤があった。

 併し飜って考えれば、対象なくして何処にこの我があるのであるか、庭前の柏の樹に面する自己なくして、何処に今のこの我があるのか。我によって柏の樹があるとは、柏の樹によって我があるということである。其処に於てあるとは、我でもない、柏の樹でもない、我と柏の木を超えたものによって、この我があるのであり、柏の樹があるのでなければならない。自己と対象が其処より生れるところがあるのでなければならない。斯かるものの内容となることによって、自己に柏の樹を見、柏の樹に自己を見ることが出来るのである。自己があり、柏の樹があるとは、斯るものが自己自身を見るところより生れるのでなければならない。自己は自己を超えたものによって自己を見るのでなければならない。

 デカルトは疑って疑うことの出来ない自己を、疑う自己に見た、そして全てのものの成 立をその基礎の上に見ようとした。私は斯る立場に立つ限りあるものは全て自己の内容とならなければならないとおもう。自己が自己の中に自己を見たものが内容とならなければならないとおもう。庭前の柏樹子は、この我が見たものとして、この我の対象となり、この我の知識の内容となるということは、この我が自己自身を見たものとして、この我の意味を宿すのでなければならないとおもう。

 併し柏樹子はこの我ではない、何処迄も対象としてこの我に対するものである。見るとは我ならざるものを見るのである。而して我ならざるものが見ることによって我の内容となり、内容とすることによって我があるとは、我と柏樹子を統一するものがあり、我と柏樹子はその統一するものの内容として無限に動的なることによって一であるということでなければならない。自己の中に自己を見るとは、無限に動的である。動的に一であるとは、この我が柏樹子を見るということは柏樹子と我の一なるものが自己自身を見ているということである。

 私は真に実在するものを求めるとき、デカルトの如く疑って疑い得ないもの、直接に与えられたものから出発しなければならないとおもう。斯くして自己に直接与えられたものは自己であり、あるものは全て自己が自己の中に自己を見出でたものであると言わざるを得ないとおもう。而して今見た如く、見るものは全て我ならざるもの、他なるものである。それを我々は見ることによって自己の内容とし、自己が自己となるものである。私はここで自己ならざるものであり、自己ならざるものであり乍らそれを内容とすることによってわれわれの自己が自己となり得る他とは何かということを問わなければならないとおもう。

 われわれの内容となるものは全てこの我の恣意を超えたものである。恣意を超えたものとはそれ自身に存在し、それ自身の法則をもつものである。例えば物理学は物自身の存在の法則であって、われわれの認識の法則ではない、われわれがそれを知るのは、われわれの意志によって決定するのではなくして、何処迄も物の動きの中に入ってゆかねばならないのである。如何なる恣意をも捨てて物に自己を消してゆかなければならないのである。そこに物が露わとなるのである。自己を消すとは何処迄も自己が無くならなければならない、何処迄も自己を消して物が露わになるとは物が物を見てゆくということである。物が物自身の内面的発展をもつということである。私は科学体系とは斯る形相として成立するのであるとおもう。

 併し斯く新たな物が生れるということは、新たな自己が生れるということでなければな らない。消すことによって現われるとは、我がそこに転生したということである。矛盾として動的なるものがそこに一つの完結を持ったということである。それは自己の相を見たということである。消すことが見ることであり、はたらくことであるとして、物が物自身を見、内面的発展をもつことが、この我が自己を見、自己を実現することであるとするより大なる生命の中心へ歩を進めたことであるとおもう。この我は自己を消す我として、物の中に入ってゆく我として、物を実現してゆく我となるのである。

 物に自己を消すことは、物を自己に消すことである。物に自己を消すとは物を作ると いうことである。物を作るとは対象に自己を見るということである。そこに消すというこ とがあるのである。自己が物になるということが消すということである。而して物とは自 己が対象の中に消える、対象に自己の形をもつということなくしてあり得ないものである。対象の中に消えるとは、自己が対象の中に形として現われることである。物の中に現れるとは、物が物自身を見ることが、われわれがわれわれ自身を見るということでなければならない。私は生命が無限に動的であるとは、物に自己を見、自己に物を見る無限に形成的なるものであるとおもうものである。物の中に自己が消え、自己の中に物が消えるものとして自覚的創造的である。

 仏教の中に草木瓦礫悉皆成仏という言葉がある。物の中に自己を見、自己の中に物を見ることによって自己があるとき、われわれの真実とは世界にあるもの悉くが自己を見るというところにあるのでなければならない。草が草を見、瓦が瓦を見るのである。色が色を見、力が力を見るのである。勿論草や瓦や、色や力がわれわれの如く意識的存在であるというのではない、意識的存在は何処迄もこの我である。併し前にも書いた如くわれわれの恣意によって見ることにあるのではない、われわれが其の中に入り、その中に消えることによって現われたものとしての自覚である。それはよく言われる大我というものではない、何処迄も自己が消えてゆかなければならないものである。草や瓦や、色や力が無限の内面的発展を有し、その力によってこの我があるものである。

 私は斯る考えからわれわれの自覚を宇宙の自覚として捉えんとするものである。近代科学の教えるところによれば、われわれは海の中より誕生した生物の一分化として発展したようである。そして人間の身体は其の発展線上に形成されたようである。人類の誇る言語中枢も斯る線上に見られるようである。生命は全て内外相互転換的である。内外の絶対矛盾の否定的転換に於て形成してゆくのである。私は内外相互転換とは宇宙が動的形成的であることであるとおもう。生命は斯る動的形成の一つの形態として生れてきたものであるとおもう。 動的形成とは対立するものであり、対立するものは否定し合うものであることである。われわれの身体はウミサソリに食われ、恐竜に食われることによって現在の形を持ったと言われる如く、否定と否定を媒介しての肯定が動的形成的であるということである。

 否定として迫ってくるものは他者である。死をもって迫ってくるものとして、絶対の他者として否定はあるのである。殺されたものとして、殺したものの力を上廻る能力に於て 新しく生れるのが否定の肯定である。生命は常に否定するもの、殺すものをもつものであり、否定するもの、殺すものとの対抗緊張の中より、より大なる生命の形相を形作ってゆくのである。斯く我を否定するもの、我を殺すものは我より出でたものではない。他者があるとは我ならざるもの、この我を絶対に超えたものがあるということである。その他者を媒介することによって我がより大なる我となるとは、他者と我との対抗緊張は超越者が自己を見ることでなければならない。斯る超越者はこの我を超えて、この我がそれによってあるものとして全存在であり、全存在を宇宙と名付けるのである。他者との対抗緊張より新たな我が生れるとは、新たな我の形相は宇宙が見出た宇宙の形相でなければならない。われわれは単なる自己より、より大なる自己に至ることは出来ない。それはわれわれを超えた生命が自己自身を見ることが、この我が否定的転換をもつということでなければならない。

 否定を媒介することによって新たな肯定をもつとは、否定するものを否定することであ り、死として迫ってくるものの力を自己の内容とすることである。私は曽って山中に於て樹上より舞い降りてくる蝶が、大きな目の紋様の翅をもっているのを見かけたことがある。その目の紋様は鮮かな円を描いていた。その形から言って鳥の目であるとおもった。そしてその目は襲ってくる鳥を威嚇する為に出来上ったのであろうと思った。恐らく限り無い年月の間襲われ食われ続けた恐怖がこの紋様を生んだのであろうとおもった。そしてわれわれの生命細胞は、死を媒介することによって他者を自己の内容とし、より大なる力をもつものとしての形相を実現してゆくものであるとおもった。

 人間生命は言語中枢をもつものとして自覚的である。自覚的とは瞬々の内外相互転換を記憶として、言語に於て蓄積するものである。そこに無限の過去の行動の蓄積は習性としてではなくして操作となる。物を製作するものとなるのである、否定即肯定としての一瞬一瞬の内外相互転換が、生命細胞の中に一つの力として潜在するのではなく、言葉として多様に蓄積する記憶の中から自由に撰択し結合するのである。そこに物を見、物を作るということがあるのである。斯る自覚というのは突如として空中に楼閣が現われたのではない、生物的生命の否定即肯定として、継絶と発展として現われたものである。生命の無限に動的な延長線上に見られるものである。生物的生命を基盤として、その上に見出されたのである。

 斯るものとして自覚的生命が製作するということも外を内とすることである。そこは何 処迄も生物的生命の拡大としてあるものである。私は蝶が襲われ食われることによって翅に鳥の目の紋様をもった、それと同じものがわれわれの物を作る底にはたらくのであるとおもう。蝶の紋様は作ろうとして作ったものではなかった。それは生命の運びとして成ったものであった。私は自覚的生命の製作が外を内としてある限り、作るということの根底に成るということがなければならないとおもう。製作と言えば内なるものを外に表わすこととおもう。それではその内とは何かと問うとき、外に否定されることによって見出でたものと答えざるを得ない。そのことは内外相互転換の根底に、内外を超えたものが自己を運ぶということでなければならない。成るとは矛盾としてあるものが、矛盾的に自己を見るということである。その一々の実現した形である。内と外、物と我を対立せしめそれを動因として動いてゆくものは、社会であり、世界である。われわれが物を作り、物を作るものとしてこの我の自覚があるとすれば、われわれの自覚は深く世界が世界を見るということに背負われているのでなければならない。そして私はその根底に蝶の翅に目の紋様を成らしたと同じ生命がはたらくとおもうものである。

 物と我を内にもつものとしての世界が世界を見るところに自覚があるとは、自覚はこの我にあるのではなくして、物と我との否定的転換にあるのでなければならない。自己を否定して物となり、物を否定して自己となるところにあるのでなければならない。即ちわれわれの自覚は働くものとしての自覚である。この我は自己否定を通じて世界を実現することによって自己を見るのである。働くとは世界の内容となり、宇宙の内容となることである。世界の内容となり、世界を実現することは世界を内にもつことである。世界の中にあるものが世界を内にもつということが自己があるということである。

 自己が物となり、物が自己となって世界を形成するとは、物は物の方向に無限の内面的発展をもち、自己は自己の方向に無限の内面的発展をもつということである。われわれが働くとは斯る相反する展開が一つであるということである。相反する展開が一つであることは、更に大なる相反する方向への展開をもつことである。

 斯かるものとして私は、この我があるとは限りない時間に於て宇宙が自己を見て来た形相としてあるのであるとおもう。生命は物質より生れたという、その可否は暫くおくとして単細胞より多細胞へ、両棲類より哺乳類を経て人類へ、それは宇宙の構成要素がそのあるべき相を露わにしたものであるとおもう。宇宙は広大である、それはわれわれを一塵の微小となさしめるものである、併しこの一塵は宇宙を知る一塵である、全宇宙を知る一塵である。

 私達はみみずの宇宙を知らない、併しその動きから見て身体が土に触れる世界を持つのみであろう。特に宇宙と言われるものがあるのではない、行動としての感官が拓いた感覚の対象があるのみである。この行動が宇宙が動的であるとしての行動であり、感覚が宇宙が自己を見るものとしての感覚である。宇宙が自己形成的として、自己矛盾的に形作って来たものである。この我は斯る形成の一中心として一要素たるのである。初めと終りを内にもつものとして宇宙を知るのである。われわれがもつ自己への確信は、宇宙の一微塵として、百年足らずの生死するものとしてもつのではない。宇宙の自己形成として、無辺の空間と、無限の時間を内包する自己信頼としてもつのである。庭前の柏樹子に対するこの我は斯る我として、宇宙の自己形成に於て今此処に出会うのである。祖師達磨は一微塵としてのこの我、生死する我より脱却せしめんとして来たのである。それは今此処の皮相を超えて底に徹することであり、この我と柏樹子の出会に徹見することである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」