平常底

 通された茶室に「平常心是道」の条幅が掛っている。掃き清められた畳目がすがすがしい。私は主人の居ない間を、平常心とは何かと考えた。平常とは喫茶喫飯であり、一挙手一投足である。日々の営為である。心とは何か、何事かがあったときに平常の挙惜動作をもち、取乱すことがないということであろうか、それもあるようにおもう、併し平常心是道は禅家の至り着いた最も深い境地であると聞いている。唯取乱さないということのみに道元が危険を冒して入唐し、盤珪が尻の肉が腐る迄結伽佚坐を組んだのであろうか。私はわれわれの行々歩々の底には生死を賭けて求めなければならない深いものがあると思わざるを得ない。平常の底には死を透過してのみ見得る、深いものがあると思わざるを得ない。われわれの一挙手一投足は如何なるものの上にあるのであろうか。

 行々歩々は生命が身体的であることによってもつものである。われわれの身体は生命が想像を絶する長い時間と、形態の変化によって形作って来たものである。人間は六十兆の細胞と百四十億の脳細胞より成るという。この複雑な有機的統一態は、三十八億年前の生命細胞の発生より、十八億年前の真核細胞の誕生、更に六億年前の多細胞生命への進化、海生類、両棲類、爬虫類、哺乳類を経て人類へと形成し来ったのである。われわれが今あるとは三十八億年の時間の集積としてあるのであり、更に生れ来る子孫の無限の未来を宿すものとしてあるのである。

 人間は物を作り、言葉をもつ、物を作り言葉をもつとは、無限の過去と未来が現在の意識としてはたらくということである。内によって外を作り、外によって内を作り、作られたものが作るものとなることである。内によって外を作るとは、内が死することによって外となることであり、外によって内が作られるとは、外を殺して内とすることである。作られたものが作るものとなるとは、内外相互転換が相即的に創造的発展であることである。我々の祖先は汗と血によって自然と闘い、死を生へと転換していったのである。時間の蓄積とは斯る力の表出の蓄積である。

 斯かる世界形成の一要素として我々は歴史的形成的にあり、身体は世界形成的として、歴史的現在としてはたらくのである。歴史的現在としてはたらくとは、世界の現在に面し、世界の現在を作るものとして、蓄積された世界の現在の富、社会機構、芸術、道徳等を何等かの意味に於て内包し、生きてゆくものであることである。

 私達は今三度の飯を美味いとか、まずいとか言って潤沢に食っている。併し日本の長い歴史に於て米が潤沢に食えたのは極く最近のことである。私の幼時はまだ学校へ辨当をもって行けないものが多く居た。だから感謝せよと私は言うのではない。喫茶喫飯にも無限の営為の重なりがあり、我々はそれを受取って渡すものとして最善をつくした営為をもたなければならないとおもうものである。

 営為は一瞬一瞬である。併しその一瞬一瞬は無限の時間に於て成立するのである。過去未来を結ぶ永遠の時に於て成立するのである。私は平常とは一瞬一瞬が宿す永遠なるものの自覚に生きることであるとおもう。

 最近寿命が伸びたと言っても私達は百年足らずで死ぬ。而して我々は永遠の時を宿すものであり、無限の時を知るものである。而して我々は形成的生命として、この矛盾によってのみ動いてゆくものである。この矛盾の喪失は死である。何うすることも出来ない死をもつものとして身体はある。私はこの岩頭に立って、生死を截断せんとするところに聖者の苦悩があったとおもう。

 人間が意識的生命があるとは、その行為に於て一瞬間の方向か、永遠の方向か何れか一を撰択するものであることである。本能的欲求は現われて消えゆくものとして瞬間的方向に成立し、言葉を媒介とする自覚的欲求は、蓄積することによって形成するものとして永遠の方向をもつ、この場合意識が要求するものは何れが根源的であるかということである。禅家に自己本来の面目という言葉がある。一瞬を知り、官能を知るのは言葉であり、生命の有限に悩むとは否定せんとすることである。そこに人生に真ならんとすとき、現在を汚 濁として、永遠を愛慕して止まない所以がある。肉体を本能の根源として徹底的に否定し なければならない所以がある。大死一番とは意識の転換を行うことである。身体の統帥としての意識の転換は亦身体の転換である。私はそこに先人の苦行があったとおもう。

 瞬間が永遠であり、永遠が瞬間である生命に於て一方の否定は全体の死である。瞬間なき永遠は単なる空虚に外ならない。意識の転換とは本能的欲求の一々が永遠の内容となることである。無限の時間の陰翳をもつものとなることである。前に書いた如く一腕の飯に先人の無限の労を見ることである。自覚的生命としての人間は、単に飲食するということにも、無限の時を孕む全人類一なるものがはたらくのである。一挙手一投足を我を超えた全生命の我への具現とするのである。私は喫茶喫飯、一挙手一投足の底には達すべからざる深さがあるとおもう。平常心是道とは斯る深さに生きること とおもう。よく言われる日々是好日という言葉も、全人類一なる目より生れてくるものとおもう。一期一会も 自覚的生命の今として出合うということである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」