客観的世界

 生命は身体的であり、身体の維持発展は内外相互転換的である。外を食物として、摂取 した食物を身体と化し、無用となったものを排泄して、外となすのが身体の営みである。身体が内外相互転換的に自己を維持してゆくとは、身体は内的なるものを内包とし、外的なるものを外延とする、内外の統一としてあるのでなければならない。 求心的方向に意志をもち、遠心的方向に世界に生きるものでなければならない。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己が自己を知る生命である。自己を知るとは、自己が自己の中に自己を見るのである。内外相互転換としての生命が、内外相互転換を見るのである。内外相互転換は一瞬一瞬である。一瞬を包む一瞬となるのである。

 外が内になり、内が外になる。物が身体となり、身体が物となる。それは技術的という ことである。内外相互転換は技術的であり、身体は構成的である。一瞬を包む一瞬とは、現在が斯る技術的構成的な一瞬を包むものとなることである。現在は一瞬より一瞬へと移ってゆく、移ってゆく現在が移るものを蓄積してゆく、そこに自己の中に自己を見る自覚があるのである。現在が時の初めと終りをもつものとなるのである。我々は永遠に映した刹那として自己を知るのである。

 技術的構成的としての一瞬が一瞬を包むとは如何なることであるか、現在の相互転換に以前の相互転換が働くのである。それは前の相互転換の記憶によって、現在の相互転換の無駄が省かれるということである。合目的的となり、合理的となることである。構成的としての身体が愈々機能的となることである。投げつけた石によって偶然に胡桃の殻が割れたとする。次は殻を割るために石にてたたくのである。一瞬が一瞬を包むとは斯る生命となることである。胡桃を割るという現在の行為の中に、過去を重ねることによって偶然を必然に転換さすのである。私は物の製作を偶然の必然への無限の転換に求めたいとおもう。自覚的生命とは外に物を作ることによって、物に自己を見てゆく生命である。技術的製作的生命である。自己が自己を表わしてゆく生命である。

 内外相互転換が自覚の内容となることは、内と外とに分れることである。生命が内外相互転換的であるとは、内と外とが一であることである。若し馬に等質等量の餌を左右等距離に置いたとする。その馬は何方も食うことが出来ず、遂に飢死しなければならないということを何時か読んだことがある。馬の欲求は餌の誘いでもあるのである。 欲求と餌が感覚に於て一なのである。馬は嗅覚に誘われて行動を起すのである。内外相互転換に於て、内外はなるところに行動があるのである。自覚的生命に於ては過ぎ去ったものが現在として、現在の相互転換を限定してくるのである。現在は過去の相互転換と、現在の相互転換を包むものとなるのである。自覚とは高次なる現在をもつことである。過去と現在の対立を包むということが思考することである。ここに与えられたものを外として、欲求するものを内として内外相分れるのである。内外相分つことによって、馬なれば飢死するところを自由に撰択することが出来るのである。

 無限の内外相互転換を内包しつつ、現在の相互転換としての唯一生命を決定する。それは現在の唯一生命は無限に構成的であるということである。外としての物を構成することが技術的ということであり、技術によって唯一現在を決定することが製作する事である。内外相分れるとは、分れたものが一に回帰することによって現在の唯一形相を実現するものとなることである。一に回帰するとは、分れたものは何処迄も対立するものでなければならない。対立するものでなければ、それは単なる一であって、一に回帰すると言うこ とは出来ない。

 対立するとは各々が内面的発展をもつことである。外は外自身の自己構成をもち、内は内自身の自己構成をもつことである。物は物自身の構成として体系的発展をもち、内は身体的欲求を離れて創造的自由人格となることである。

 対立するものが一であるとは相互媒介的となることである。相互媒介的とは、内と外は絶対に対立しつゝ外は内によってあり、内は外によってあることである。物は人によってあり、人は物によってあることである。物は自由人格の創造によって構成をもち、人は物の内面的必然を見ることによって愈々自由な人格となるのである。物は人の中に消えゆくことによって、新たな物となり、人は物の中に消えゆくことによって新たな人となるのである。自覚的生命の内外相互転換は、物と人がそこに消えて新たに生れる刹那として製作的である。製作は過去がここに消え、未来がここに生れる行為的現在であり、過去は死して生れるものとしてここに働き、未来は形を呼ぶものとしてここに働くのである。対立する外と内、物と我が一となることが製作することである。

 対立するものは相互否定として対立するのである。物と我が分れるとは、否定し合うものとして分れるのである。物はわれを否定してくるものとして外である。否定とは生きるものとしての我に死をもって迫ってくることである。もともと内外相互転換が相互否定的であった。食物がないということは我の死として無に帰することであり、物を食うということは物が無に帰することである。物を得物を否定する我が力をもち、否定的転換に於て形相を実現するものとして、内容をもつものである如く、我を否定する物も、自己の形相を実現するものとして力をもつものでなければならない。斯る力によって我々は殺されると共に、生かされるのである。

 外は我を殺すものとしてはかり知ることの出来ない力である。それを我を生かす力として転ぜめるためには、物と我と相分れた自覚的生命に於ては、何処迄も物の中に消え、物となってはたらかなければならない所以がある。而して物となってはたらくことが、物を生むところに相互転換としての生命の営為があるのである。

 物に消え、物になって働くとは如何なることであろうか。生命は何処迄も内外相互転換 的一である。内が外を作り、外が内を作るのである。内は外を作るものとして内であり、外は内を作るものとして外である。 生命が風土的、歴史的に把握される所以である。自覚的生命に於て物と我が絶対の懸絶であるとは死することによって生きることである。それが転換に於て一なることである。

 我ははたらくものとして我であり、物は形あるものとして物である。物に消え、物とな ってはたらくとは形に実現してゆくことである。はたらくものは露はとなると共に、はた くものは消えてゆくのである。意志は遂行と共に消えるのである。而して形造られたも のの呼び声から、新たな決意が生れてくるのである。物ははたらくものに新たな決意を呼ぶと共に滅びゆくものとなるのである。そこに技術の発展があると共に、自覚的生命の内外相互転換があるのである。

 私は客観的世界をこの自覚的生命の内外相互転換的一に求めたいと思う。それは生命が物の中に没し、物が生命の中に没してゆく世界であると共に、物が形より形へとしてそれ自身の内面的発展をもち、生命は世界を形造るものとして絶対の自由を自覚するものである。物は何処迄も物でありつゝ、生命の翳を宿すことによって物であり、生命は何処迄も自由でありつつ、物に見出すことによって生命である。それは無限に動的である。

 私は斯る世界を歴史的世界に求めたいとおもう。無限に動的とは、現在より現在へと自己を形成することである。技術的とは時間を内包するものとして、歴史的時に於て技術はあるのである。伝統なくして技術はあり得ないと言われる所以である。歴史的世界とは生れ働いて死んでゆく世界である。無数の人が生れ、相対し死んでゆく世界である。我々がこの我というのも、この世界にあることによって言い得るのであり、物はこの世界に於て作られるのである。無限の過去より無限の未来へ流れつつ、無限の過去と無限の未来を現在とする世界である。

 客観的世界はそれに於てあるものとして、於てあるものの価値の決定者である。価値とは世界を実現しているということである。斯るものとして私は価値の決定者は歴史的現在に求めたいとおもう。人も物も世界形成に如何に働いているかによって決定されるとおもう。宝の持ち腐れという言葉がある。世界形成に参加し得るものが参加していないという ことである。

 自覚的生命の内外相互転換として、歴史は無限の推移である。歴史的現在は内包する外と内との矛盾によって、現在より現在へと移ってゆくのである。矛盾によって動くとは否定することである。動くものは相反する方向に動くと言われる如く、価値は絶えず変遷してゆくのである。昨日迄大なる人類の意志であったものが、明日は忘れられたる者となるのである人の魂を魅了した蓄音器は、今は古物商の店頭に見るのみである。

 併しそれは単に否定されたのではない、新しいものを産むことによって死んでいったのである。産むものとして永遠の底にひびきゆくのである。製作に於て無限の過去と未来が現在であるとは、形の変遷を超えてはたらくものとして一であるということである。我々の根底には全人類一なるものがあるのである。無数の過去の人、現在の人、未来の人が一なるものがあるのである。それは恰も大古の波も現在の波も同一の海の水のはたらきによるが如きものである。自覚的生命としての製作はここに見られるのである。私は仏教の弥陀の本願とか、キリスト教の最後の審判は斯る地盤に成立するものであり、歴史的現在は深く斯かるものをもつことによって、過去、現在、未来を包み得るのであるとおもう。いわば歴史的現在は一瞬一瞬に弥陀の本願をもち、最後の審判をもつのである。

 私は斯かるものの端的な表れが言葉であるとおもう。言葉を作った人はないと言われる。しかも言葉は常に語る人の言葉である。私達は言葉を解することによって、六千年前のスメル人の心や行動を知ることが出来るのである。言葉は現在によって生かされる。道元の言葉は我等に生かされてのみ言葉である。併し道元の言葉はこの我の中に消えるのではない。奪うべからざる道元の言葉として、我々に対するのである。対話するのである。我等に生かされるとは、我等を生かすものである。私は言葉は太初と終末を結ぶ生命の表れであると思う。意識の最深なるものは、言葉が太初と終末を結ぶことを知ることであるとおもう。

 初めと終りを結ぶとは、初めと終りがあるとゆうことである。一とは多ということであ る。大なる生命は我々を内に包みつつ、それ自身の動転をもつのである。我々はこの大なる生命の中に自己を消すことによって生かされるのである。私は客観的世界とは、はたらくものとしてのこの我が、我がその中にあり、それによって生かされるものとしての大なる世界に対し、大なる世界を見ることであるとおもう。

 対するとは否定することである。反逆することである。単なる内容は何ものでもない、対することによって偉大を知り、反逆することによって深淵を知るのである。内外相互転換するのはこの身体であり、製作するものはこの我であり、汝である。この我は逆に世界を包み、世界を作るものである。唯一世界といっても単なる唯一は何ものでもない。動転は否定するものによって動転するのである。

 我々が物を作るとは個性を媒介として、新たなものを作ることである。新たな状況を創 り出すことである。世界を否定して新たな世界を作ることである。世界の内容であるものが世界を内容とする。そこに客観に対する主観があるのである。そしてそこに小主観とか論理学に主語不当拡大と言われる、主観の誤謬が生れるのである。永遠に動転するものの前に生死するものは全て誤謬である。そこに我々の自己を死して生れさせなければならない所以があるのである。自覚的生命としての内外相互転換は常に努力である客観的世界は我々の主観がそこに成立するものとして、根源的主観の意味をもつものである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」