宇宙

 先日の新聞にローマ法皇がガリレオ・ガリレイの罪を赦免して、彼の肖像入りの切手を発行するという記事が載っていた。何を今更とおもう。多くの人は宗教のもつ体質に幻滅を感じたのではなかろうか、併し考えて見ればそれ迄の人類は天動説を不抜の真理と信じていたのである。斯る信は何処から来たのであろうか、亦最近の天体物理学によれば、宇宙は約二百億年前に爆発し、そのエネルギーは無限大であり、そのエネルギーによって膨張を続けていると言われる。それは果して誤りなき真実なのであろうか、仮説によって構成されたものとして、次の仮説によって修正されてゆくものなのであろうか、そうとすれば信ずべき宇宙というのはないのであろうか、信ずべき宇宙がないとすればわれわれは何故に宇宙への探求に駆り立てられるのであろうか、宇宙とは一体如何なるものであり、われわれは何を尋ねるのであろうか。広辞苑によれば「宇宙、(淮南子の斉俗訓によれば、「宇」は天地四方、「宙」は古往今来の意。一説に「宇」は天の覆ふ所、「宙」は地の由る所。すなわち天地の意) ①世界または天地間。万物を包容する空間。 風流志道軒伝「論語は第一の書②〔哲〕時間・空間内に存在する事物の全体。また、それら全体を包む ひろがり。 ③〔理〕すべての時間と空間およびそこに含まれている物質とエネルギー。〔天〕すべての天体を含む空間。特に、地球の気圏の外。以下略」と記されている。通常私達が言う宇宙とは天文学的宇宙であり、宇宙とはそれ等を一分野として包む全存在であるということらしい。それでは宇宙とは如何なるものであろうか。

 宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、事物は時間・空間の内容であると共に、時間・空間は事物の形式であるということでなければならない。すなわち時間・空間としての全存在は事物の存在の様相でなければならない。空間とは形をもつものであり、時間とは形が変じてゆくものである。時間は過去、現在、未来をもつ、過去は現在ならざるものであり、未来は現在ならざるものである。時は一瞬の過去にも還り得ないと言われる如く、無限に変じてゆくものでなければならない。併し変じてゆくとは過去、現在、未来として変じてゆくのである。過去なくして現在はなく、現在なくして未来はない、そこに於て変化するものは一なるものでなければならない。変化を超えて不変なるものがなければならない。空間が形をもつとは形と形が対するということである。一つの形というのは何ものでもない、形というのは他と区別することによってあるのである。他と区別するものは対立するものである。対立するものとは否定し合うものである。否定し合うとは対立するものを変ぜんとすることである。相互否定の中から新しい形が生れる。前の形は否定された形として、新しい形は現在の形として形より形へ空間は自己を維持してゆくのである。時間が変化を超えた不変なるものがなければならないとは、時間は空間の中に消えてゆくのであり、空間の形が対立するものとして変化によって自己を維持してゆくとは 空間は時間の中に消えてゆくことである。そのことは時間・空間を超えて時間・空間的に 自己を限定してゆく一者があるということでなければならない。宇宙が時間・空間内に存在する事物の全体というとき、宇宙は時間的・空間的に自己を限定してゆくということでなければならない。変ずるものが不変なるものであり、不変なるものが変ずものであるとは宇宙は時間・空間的に自己を形成してゆくということでなければならない。宇宙とは自己形成的であり、時間・空間は形成の両極としてあるのである。全てあるものは時間・空間的にあるのであり、あるものとは宇宙が自己の中に見出でた自己である、そこに宇宙とは時間・空間的に存在する事物の全体ということが出来るのである。われわれ人間も亦時空間的にある、即ち宇宙の内容として、宇宙が自己の中に自己を見たものとしてあるということである。私はそこに宇宙の現われとして、この我の中に深く入ることが宇宙と は何かを明らかにする所以であるとおもう。

 宇宙は無限大のエネルギーの爆発に初まり、初めは素粒子のみがあったと言われる。一斯かる素粒子がヘリウムと水素を作り、更にヘリウムと水素から種々の分子が出来、分子から生命が生れたと言われる。最初素粒子のみがあったとき、素粒子と宇宙の関りは如何なるものであったであろうか、私はそこに一々の素粒子が宇宙の本質を担うものであったということが出来るとおもう。本質を担うとは、一つの素粒子を知ることは全宇宙を知ることが出来ることである。素粒子が原子を作り、原子が分子を作ったということは、原子・分子の一々が宇宙を宿し宇宙を構成するものであるとおもう。一々が宇宙の構成要素であることが自己の中に世界を持つことである。生命はその中に生れた新しい形として更にそれを鮮明たらしめたものであるとおもう。生命は宇宙の更に鮮明な形としてあるのである。宇宙は生命として自己を明らかにするのである。

 生命は内外相互転換的である。外を内とし、内を外とすることによって形作ってゆくものである。摂取と排出によって形相を転換してゆくのである。斯る転換が形成作用である。植物の光合成作用を基幹として、それが動物に於て食物連鎖となるのである。食物連鎖の世界は動物に於て自然陶汰の世界である。動物にとってそれは死との対面の世界である。食われるものは勿論死である、食うものもそれが獲得出来ないときは死である。そこに 生死をかけた闘争がある、而して動物はそこによりすぐれた新しい機能をもつ生命となるのである。如何にして遁れとし、如何にして捉えんとする所より、より大なる能力が生れるのである。生存として獲得したより大なる能力は遺伝にまれ、学習にまれ個体を超えて種族の内容として維持してゆくのである。より大なる能力を獲得するとは、より大なる時間と空間を自己の内容とすることである。より広く、より永く行動し得る身体となることである。宇宙が生命に於て自己を明らかにするとは身体に於て明らかにするのである。一々の身体はその内包に於て宇宙に対応するのである。この我の身体を除いてこの我の宇宙があるのではない、この我の宇宙なくして宇宙一般があるのではない。若しみみずに意識があると仮定してその宇宙像は如何なるものであろうか、みみずはそのもつ行動能力に従って宇宙像を描く以外にないであろう、それはわれわれと著しく異ったものと思わざるを得ない。ふくろうは目が殆んど見えず、遠近をわれわれよりはるかに優れた聴覚に於てもつと言われる、斯る感覚によって構成される宇宙像もわれわれより異っていると思わざるを得ない。併し私達は、宇宙が自己の身体に即するといっても私達の恣意によって宇宙があるとおもうことは出来ない。任意に作れるものは宇宙ではない、普遍妥当性として万人が肯わなければ宇宙ではない、われわれは宇宙の中に存在するものである。斯る宇宙は 如何にして考えられるのであろうか。

 私はそこに人間生命の自覚があるとおもう。生命は身体的形成として摂取と消耗の絶えざる転換である、一瞬一瞬の絶えざる動きである、自覚とは斯る転換が蓄積的となることである。動物として行動によって食物を求め、獲得することは技術的である。蓄積的であるとは斯る技術に於て以前と現在が結合することである。例えば昨日獲物が穴に落ちて動けなくなっているのを捉えたとする。すると今回は穴を作ってそこに追い込み動けなくして捕えるというごときである、昨日と今日が捕獲に於て結びつくのである。内外相互転換としての技術はここに製作的技術となるのである。前肢は手として外を変革するものとなるのである。作られたものとし生れ来った身体は作るものとなるのである。われわれは記憶によって過去をもつ、言葉によって蓄積し、手によって製作するのである。製作とは新しい形を生み出すことである。新しい形とは与えられた本能的なものによってはあり得ない形である。経験の蓄積によって死を生に転ずところより生れる形である、勿論本能的なものが無くなったのではない、それが構成的となったのである。無限の時点が現在の生死に於て新たな形として結びつくものとなったのである。

 製作はわれわれの身体の延長である。身体は宇宙の自己形成の内容として作られたものであった。宇宙の内容として作られたものが宇宙の形相として、逆に宇宙の形相を実現するのが製作である、そこに形を内にもつものとなるのである。斯る製作によって見出される形に空間はあるのであり、製作の力の表出に時間はあるのである。われわれは宇宙の一微塵として生れた、併し製作するものとして宇宙を内にもつものとなるのである。ここにわれわれは自己の自覚をもつのである。製作によって時間・空間があることは、時間・空間の中に存在する事物の全体とは、技術によって製作された事物でなければならない。作ることによって見られたものの外延と内包が宇宙でなければならない。内外相互転換の蓄積によって描かれてゆく世界が宇宙でなければならない。

 技術的・製作的世界は歴史的形成の世界である。人間が技術保持者として、歴史は何処迄も人間の生命形成である、手と言葉を有する製作的身体の表現として製作はあるのであり、人間は製作的身体として歴史的に自己を形成してゆくのである。併しその製作的身体は何処から来たか、如何なるものであることによって言葉をもち、手をもつことが出来たか、私達はここに私達を超えた生命を見ざるを得ない、知るべからざる深さの底に、われわれがそれによってあるものに触れざるを得ない。この我の現前を直証としてこの我に表われるものによらざるを得ない、私は製作もその根源をここに有するとおもうのである。経験の蓄積ということも断るものによってあることが出来るのである。蓄積が過去・現在・未来をもつということは無限の時をもつということである、存在の初めと終りを結ぶものをもつということである。初まる時を知らず終る時を知らないものが現在に現われているということである。私達は作ることによって見、見ることによって作るのである。その底には大なる生命の自己実現のはたらきがあるのである。人類が感覚に捉え得るものは全て斯る生命の表れである。私達が時間・空間の内に存在する事物の全体というとき、存在する事物は斯る生命の表れであるとおもう、私達はここに宇宙を見るのである。人間が歴史的形成的に自己を見でてゆくすがたは、宇宙が自己を見出てゆくすがたである。

 宇宙というとき私達は直に天体を含む無辺の空間に想到する、私は斯る空間とは上記の宇宙より空間的方向に抽象されたものであるとおもう。斯る空間も歴史的形成の内容としてあるのであるとおもう。先日の新聞にローマ法王廟ではガリレオ・ガリレイの罪を赦免した記念として切手を発行するということが報ぜられていた。これを読んだ多くの人は 恐らく失笑したことであろう、何を今更とおもう、併し古代に於て多くの人は太陽が地球をめぐると信じて疑わなかったのである。私も学ばなければ天動説を信じているであろう、そこに観測技術の進歩があったのである。内に数理論の発達があり、外に観測器具の発達があったのである。更に思いを及ぼせば人間が未だ猿の如く樹上生活を行っていた頃には、天体とは一体如何なるものであったであろうか。星座は放牧の民によって見出されたという、彼等はそこに自分の位置を知り、時刻を知り、行くべき方向を知ると同時に美しく統一された天の運行を知ったのである。 天体も、人間の生存の自覚的行為としての牧畜の中に見出されたのである。恐らく生存の自覚的行為としての技術をもたなかった樹上生活当時にとって天体は如何なるものでもなかったのであろう。天体としての宇宙の像は日進月歩とでも言うべき激しさで変化しているようである。私達の幼少時、天には十万個の恒性があると教えられた、それが今では一兆個の一兆倍と書かれている。宇宙は数多くの星が規則正しく運行する所と教えられた、それが今では発生と死滅を繰り返す、爆発に初まり、膨脹を続ける体系と書かれている。それらは全て観測器具と統一理論の技術発展のもつ展開である、斯る技術の発展は単に天体物理学の単独の発展にもつものではない、 歴史的形成の発展を分有するのである。望遠鏡の精度の向上には素材の発展から始まるのである。更に科学は仮説と実証によって成立すると言われる。私は仮説には人間の夢とでも言うべきものがなければならないとおもう。この我の内に、与えられた空間・時間より更に大なる時間・空間を構成する可能性と、意志をもつのでなければならないとおもう。この我が見ることが宇宙が宇宙を見ることであり、この我が見ることは宇宙が宇宙を超えて更に深大なるものを露わにしてゆくということである。私がわれわれが通常もつ宇宙の概念は宇宙の空間的方向に抽象されたものであるというのは斯る立場からであり、その根底に歴史的形成があり、宇宙の真の相をその根底に見んと欲するのである。

 私は宇宙的生命というのは何処迄も見るべからざる深さであるとおもう。自己の中に対立を含み、自己の中に自己を見るということは何処迄も見るべからざるものをもつということである。自己の中に自己を見るということは根底に還ってゆくことである、現在われわれに現前する世界の事物は人類が無限に自己の根底に還った表れである。斯る事物が見られたものとして、更に自己の根底に還ってゆくのが自覚的生命がはたらくということである。見るものが見られたものとして、見られたものが見るものとして、自己の中に自己を見てゆくのである。それは無限の形の現前である。私はそれを宇宙の現前とするのである。天体物理学に於ける仮説の如きも、それが仮説として真と言うべきものに非ざるものながら、宇宙が自己の中に見出でた自己として、現在の自己現前として真なるものでなければならない、自己の底に見出でた自覚的生命の実現としての実在性をもつのである。自己の中に自己を見てゆく無限の線の一点として、歴史的現在を構築するものとしての真である。天動説も、宇宙が宇宙を形成してゆく時の一点としての真実をもつのである。一点は自覚的形成の一点として無限の過去を担い、無限の未来を孕む一点である。太古牧童が天を仰いだ時より、未来に見出されるであろう天体像を内蔵する一点である。宇宙はわれわれの内にあるのでもなければ外にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのである。自己の中に自己を見てゆくとき如何なる時点も抽象された時点としては誤謬である、移りゆく一点として否定さるべき一点である、現在は否まれるべくあるのである。自己の中に自己を見るということが既に否むべく見るということである。併しそれは形成的全体を蔵するものとして真である。形成的全体は初めと終りを結ぶものである。一々の点は自己の中に自己を見るものとして初めと終りを蔵するのである。そこに於ては立 所皆真である、嘘言も真である。

 ホモ・ サピエンスとして現代の人類は全て六十兆の細胞と、百二十億の脳細胞をもつと言われる。私は全ての人が等しい構造をもつということは、一人一人の人が社会構成の特殊点を担うということではなくして、一人一人が世界を映すということであるとおもう。機械の部品の如きではなくして、必要に応じて部署に着くのである。一人一人が形成的に世界を映すものとして特殊点に立つのである。鍛冶工も、清掃婦も世界を形成するものとして工場の隅、病院の廊下にはたらくのである。それははたらく世界の一員であることを知るものである。世界を映すものとして一事に従事するのである。一に従事することは世界を形成することである。証上に万法をあらしめて出路に一如を行ずるのである。斯かる世界形成が、宇宙が自己の中に自己を見ることなのである。宇宙が自己の中に自己を見ることによってある人間が、自己形成的に自己の中に自己を見てゆくことがはたらくことである。われわれのはたらきの一々は宇宙的生命のはたらきとして宇宙に即するのである。形成作用として初めと終りを結ぶものに対応するのである。対応するとは映し合うことである。そこにわれわれは小宇宙となるのである。小宇宙となるとは形成的に参加することによって、われが宇宙を映し宇宙が我を映すことである。内としてもつ表象と外としても表象は常に等しいのである。そこに形成作用はあるのである、外として見る世界は脳細胞の中に宿されているのである、それは宇宙の自己形成として宿されているのである。対応するとは、対面する全宇宙を小宇宙として内的表象としてもつということである。形成ということは絶えず形を生み出してゆくことである、形を生み出すとは現在の形を破ってゆくことである。現在の形を破るということが新しい形が生れることである。現在の形を破ってゆくものはこの我であり、汝である。それは全宇宙を内にもつ小宇宙がはたらくことに よってあり得るのである。一々の小宇宙が、内が外を映し、外が内を映すというは内が外を破り、外が内を破る形成作用ということである。斯る形成作用を除いて宇宙というものがあるのではない、而して小宇宙として宇宙の形を破ってゆくとは宇宙の形成要素として破ってゆくことである。宇宙は自己の内容の一々が自己を超え、自己を包む要素として自己を形成してゆくということである。十億の人が居れば十億の内的宇宙像があるのである。宇宙像に於て人々は宇宙に即し、宇宙に対応するのである、人々は斯る宇宙像が過去の無数の人々の作り上げた宇宙像を受け、それを映し、それを破ると知るのである、即ち 無数の人々が作り破って行った宇宙像が現在として一の像をもち、斯る像を映し破ることがわれわれが宇宙に対応することと知るのである。われわれが内的表象として宇宙像をもつのも、斯る無限の時間の上に構築された宇宙像に依ると知るのである。人類はその人間的同一を以って同一像を見、個人的差異をもって差異像をもつのである、そして個人の生死に於て人類の同一像に牧斂されてゆくのである。

 私は歴史的形成と宇宙的形成を分つものはその時間的差異にあるとおもう。歴史とは人間が人間として物の製作を始めたときからであり、所有の葛藤の限りない変遷にあるようにおもう。それに対し宇宙的形成をいうとき、宇宙創世よりの問いであり、人類が出で来ったものを包まなければならないとおもう。歴史は対立するものの否定と肯定である。果てしない治乱興亡である。併し歴史が成立するには治乱興亡を俯瞰するものがなければならない。古代と現代を一つに於て見るものがなければならない。併しそれは既に歴史を逸脱するものである。私はそこに歴史的形成は宇宙的形成を背景にもたなければならないとおもう。時の統一が成立するには自己の中に自己を見るということがなければならない。存在が自己自身を見るということがなければならない。それは相対的軋轢としての歴史より見ることの出来ないものである。勿論歴史もそれが形成である限り自己の中に自己を見ることによって成立するものである。一つに於て見るものがなければならないとは、斯かるものによって成立するということである。そこに私は歴史は宇宙的形成の上に成り立つとおもうのである。歴史的身体として製作するわれわれは製作に於て絶対に触れる、この触れる絶対は初めと終りを結ぶものとしての宇宙的形成にあるのである。宇宙的生命を根底として、歴史的形成はそれ自身の完結をもつのである。

 禅家に「父母末生以前の己を問え」というのがあるそうである。この我の来所が問われているのである。われわれは父母によって生れた。併し考えて見ればこの我が生れたというも実に偶然である。父と母が結婚したというのも偶然である。若し母が妊娠の日に父が旅にでも出ておればこの我はなく、他日異った者が出生したとおもう。まして父母未生以前といえば無というの他なき我の所在である。斯く問うときこの我の所在は濃霧の中の如きものである。併しての我は出現したのである。六十兆の細胞と百四十億の脳細胞の見事な統一として、世界を映し、世界を形成するものとして現前したのである。更に世界形成的に無限の過去と未来を結ぶものを内にもつものとして、小宇宙として宇宙と映し合うものとして、はたらくものとして現前したのである。私は私の来所をここに求めたいとおもう。この我は宇宙が宇宙の形相を更に深く実現すべく、宇宙的意志とでも言うべきものによって生れたのである。われわれは自覚的として自己自身を知る生命である。併し斯る自己を知るということも生得である。言語中枢はこの我が作ったのではない、もって生れたのである。もって生れたということはこのわれを作ったものが自覚的であるということである。私は宇宙が自覚的であり、われわれは宇宙の自覚の体現として自覚的であるとおもう。宇宙は物質でも精神でもないのである、無限に自己の中に自己を見てゆくものなのである。自己の中に自己を見てゆくものとして生命があり、自覚があるのである。言語中枢は斯る限定の果に宇宙が見出した自己のすがたである。そうゆうことは宇宙は自己を知ることによって自己を形成してゆくものであるということである。言語中枢に自己を見出したものとして、われわれの意識に現われたものが宇宙の相である。知らざる我の来所は宇宙の形成はこの我の出現の如く形成するということである。於世出現としてわれわれの一々は宇 宙と対応するのである。われわれは宇宙の形成的要素として、其の中に生死するものとして宇宙は量り得ざるものである。併しそれに対応するものとしてわれわれの自己は量り知るべからざるものをもつのである。

長谷川利春