子午線より

 舌うちしてポケットベルを止めたりし男いっきに珂琲を飲む 野瀬昭二

 子午線を流し読みしていた私の目はこの一首に止まった。行動的な男性像が不意に浮んだのである。私は歌を読み返し乍ら映像を鮮明にして行った。ポケットベルが鳴ったということは何か急用が出来たのであろう。舌うちは束の間の偸安を奪われたことに対するものであろう。併しここで狼狽することなく、舌うちしたというのは一つ余裕である。余裕とは向後に対する確信である。即ち事態に対応出来る練達者であることである。いっきに珈琲を飲むとは行動を開始したということである。その間断なき動作には、如何にもきびきびとした動きが感ぜられる。前に行動的な男性像と言ったのは、壮年に差しかからんとする筋肉質な男の姿である。眼前の一つの動きを捉えて鮮かな人間像を表現し得た手腕は高く評価したい。

 この一首に触発されて短歌欄を最初から読み返してみた。嬉しかったのは竹内ひさゑさんの健詠であった。あの年老いた細い軀で自転車を漕ぎ、歌会にいつも遅れて、いつも出席していた氏を見なくなってから久しい。病気と聞いたことがあるので、床に呻吟しておられるのかと思っていたら驚いた。出詠されている三首共皆巧い。簡潔でありつつ、ふくらみがありみずみずしい。殊に末首

 土少し双葉に残し傾きて大豆みどりに皆揃ひ立つ

 は克明な写生に作る者の喜びが溢れている。末句、きそひ立つとか、こぞり立つとかの言葉を入れたいような気持がするが、作品の方が落ち着きがあって味わい深い。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」