夢想

 昔はよく技術の練達を願って二十一日の断食をし、水垢離をとって神に祈ったようである。神陰流とか、夢想剣とか言われるものは満願の日に現われた神が示した技から編み出したものであるらしい。剣のみではない、仏像を彫り、天女や竜を描くにも同様の祈願をこめて、形の啓示を祈ったとは書物に見るところである。

 一日中で私達の創造的思考の最も働くときは、午前五時頃であると書いてあるのを読んだことがある。人類の偉大なる発想は多くこの時に生れたとあったようにおもう。午前五時と言えば瞼はまだ閉じたままで、頭脳のみがはたらくときである。断食と水垢離、夜明け前の目にまだ眠りの残るときに、私達は創造的発想をもつとは如何なるはたらきによるのであろうか。

 この二つに共通する条件は何であろうか、私はそこに意識が身体を放れると共に、身体が対する現実より放れるのを見ることが出来るとおもう。二十一日の断食と水垢離は疲労と衰弱の故に、午前五時頃は横臥と、目覚めた身体が未だ活動の準備が整っていないが故に、意識は現実としての身体や対象に面していないとおもう。意識が現実に面していないとは如何なることであるか。

 生命は内外相互転換的にある。内外相互転換的にあるとは、内が外を否定し、外が内を否定することである。外を否定して内とし、内を否定して外とすることである。生命が動的であるとは、斯る転換として動的であるのである。対象は単に我々に見られたものとしてあるのではない。生死を距てる対抗緊張に於てあるのである。斯る転換が我々の日々の営為であり、現実とは斯る日々の転換の営為である。

 意識とは斯る転換より生れると共に、斯る転換を映すものである。映すというは其の中に見るものとしてより大なる立場に立つのである。我々は経験を蓄積するものとして物を作る。経験を蓄積するとは一瞬一瞬の転換がはたらくものとなることである。昨日の営為が今日の営為となることである。意識とは断る経験の蓄積である。昨日の営為と今日の営為を統一するものである。無限の過去の死を生に転じた一瞬一瞬を、現在の死生転換の参考としてはたらかしめるものである。生命形成の初めと終りを結ぶものとして、永遠の相下に一瞬一瞬を成立せしめるものが意識である。

 一瞬一瞬の内外相互転換がはたらくもの、見るものとなるとは生命は形成的であるということである。それは外を作ることによって内を作り、内を作ることによって外を作ることである。内とは無限の過去としての外を現在に於てもつものであり、外とは無限の過去としての内を現在にもつものである。我々が今もつ営みとは斯る生命の無限のはたらきである。

 意識は身体の意識であり、身体を離れて意識はない。それが身体を離れるとは転換としての対立緊張を失なうことである。対立緊張を失なうとは、外よりの否定としての圧迫をもたないということである。内としての外を形成するはたらきが、現実としての外の圧力を極小として、自由に形を見ることである。そこに夢想がある。夢想とは内を外とする形成作用が、外の抵抗を失なって、内よりの形成を何処迄も肥大させてゆくことである。身体を離れるとは、外の抵抗を極小とする故に力の表出が最小限にとゞまることである。そこに夢想の非現実性がある。夢想は多く欲求が表象的に肥大して、外として、物として実現することの出来ないものである。それが創造的内容となって、大なる形相を生むとは如何なることであろうか。

 私はこの問題に迫る前に、内外相互転換について少し突込んだ考察を加えなければならない。外は物として我々を取り巻くものである。それは形あるものとして対立するものであり、対立するものとして多なるものである。形あるものとして既に作られたものであり、 既に作られたものとして過去に属するものである。外を内にするとは、過去としての多が現在の中に消えてゆくことである。現在の生命形成の中に形を失なってゆくことである。人間は自覚的生命として物を製作する。製作するとは過去が消えて、未来が現われることである。過去としての多が消えてゆくところとして、外が内となるとは、多が一となることである。

 私は夢想が偉大なる形相を生むには、既に全心身を投げ込んだ問題意識があったとおもう。問題意識は常に多の矛盾対立である。多は一への回帰に於て多である。問題は多が自己を一として見ることが出来ないことより起きるのである。矛盾は多が一ならんとするが故に矛盾である。外を内ならしめんとする生命形成に於て矛盾である。対立は何処迄行っても対立である。それは一となることの出来ないものである。それが極小となるとは、対立が極小となることである。そこに突然内が現われるのである。一が出現するのである。この現われた一が偉大なる形相である。それは全心身を領じたが故に、極小としつつ底深く外につながっていたのである。

 外を内とするとは、世界の秩序を身体の秩序に於て見ることである。内外相互転換として物は身体の外化である。世界は身体の延長として世界である。物と化した身体がその対 立に於て、再び身体に還るのが外を内に見ることである。矛盾対立は身体の生死にある。 物と身体は相互否定的に形相形成的である。世界の矛盾対立が統一に於て捉えられるとは、 身体的一に於て捉えられることである。夢想に於て外としての物の圧力が消えるとき、突如として身体の秩序が物の形に現われるのである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」