母が教えてくれたところによると、前の私の家は曽って江戸時代に大門で盛大を極めた素封家、水木氏の分家が貧乏したのを買って建てたらしい。この度新築するために壊した時は既に買ってから八九十年を閲(けみ)していたのであろう、柱の下部二十糎(cm)位は殆んど継いであり、その継いだ木も亦下部が腐って挫けていた。殊に納屋を改造して鎌の柄付の作業場にした処はひどかった。壁が矢張り下部二十糎程崩れて骨竹が露わになっていた。それを焼板を張ってかくしていたのである。

 或る日作業所の床下から小さな動物の鳴き声が聞えて来た。皆はねずみが子を生んだのであろうと言い、いや猫の子だと話していた。声は日増しに大きくなっていった。四五日経った頃、焼板の大きく裂けた所より犬がのっそりと出て来た。見ると腹を大きくして村の中をうろついていた黒い犬である。私を見るとそれ程恐れる風もなく、やや急ぎ足で裏の田の方へ走り去って行った。うろついていたのは産む場所を探していたのであろう。そして私の家の壁の破れが撰択の場所となったのであろう。

 生れ来たものは仕方がないとして野犬は困る。そうでなくてもその頃野犬が増えて夜歩きなどは危険を感ずることがあった。今の内に禍根を絶たなければと思って保健所に電話した。早速来て下さったが、密閉された床下では何うしようもないとのことであった。それで、可哀想であるが親犬の出入口を塞いで餓死させることにした。私は犬の力ではとても動かすことが出来ないとおもう石を探して来て裂け目に置いた。そして寝る前に一度見に行った。仔犬は前より激しく鳴いているが石はそのままである。私は安心と少しばかりの心の痛みを抱いて寝た。翌朝早く見に行った私は自分の目を疑った。壁の裂目から黒い親犬が出て来て走り去ったのである。見ると石はそのまま置いてあり、その隣の焼板が破られて壁土が落され、壁下地の竹が折られて丁度犬が出入りする位の穴になっている。私は驚いた。焼板壁土は兎も角八九十年経たと言っても壁下地の竹は人間の力でも折るのは容易ではない。それこそ一晩中かかって死物狂いで開けたのであろう。私は何か壮厳なものを見る思いがした。併し多くの人の迷惑を思えばそんな感情に関っていることはできない。私は亦石を置いた。それから犬と私の根較べが続いた。作業場の壁の外側は大部分石が並んだ。床下の仔犬は健かな鳴き声をいよいよ大きくしている。

 そんなことが続いた或る日、親の出入りする穴から仔犬が五匹這い出して来た。天気が好いので日光を浴びに出たのであろうか、丸丸肥って親に似た黒いのが四匹、茶と白の縞になったのが一匹である。私は好機至れりと走り寄って、穴の中へ逃げようともぐり込む最後の一匹を摑えた。そして頼んで保健所へ持って行ってもらった。併し私が捕えたのはそれ一匹のみであった。それ以後警戒心を増し、脚は日毎に速くなって行った。早く捕えなければ成犬になってしまうと会う人毎に語っていると、そんなら捕ってやろうという人が現われた。私は保健所の人でさえ匙を投げたものを何うして捕えるのだろうかと思いながら、獲れなくて元々と思い頼んだ。その人は翌日大きな網をもってきた。そして竿を探して来て犬の出入りの穴より少し離れた処に張った。そして少し時間が経って見に行くと、折柄の好天に誘われたのであろう四匹の仔犬が出て来て網の中で遊んでいるではないか。その人はそれを見るとずかずかと歩み寄った。私はてっきり仔犬等は慌てて穴の方へ逃げるであろうと思っていた。豈図らんや仔犬の逃げたのは網の奥の方であった。それを網でそのまま包み、竿を外して軽トラでそのまま持って帰ってくれた。

 その後やれやれとおもう半面流石に哀れであった。生命を賭けて壁を破った日々、犬は子を奪われたと知ってどのような狂乱の姿を示すのであろうかと寝ながら耳を澄した。併しそれに関る音は聞えなかった。翌日犬が近くに現われた。併し悠然と歩んでいるだけで仔犬に関心があるように見えなかった。私は信じられないものを見るような気がした。あのように悠然とし乍ら急に飛び掛ってくるのではないかという幻想を抱いた。それは杞憂であった。出入の穴も前日と変っていない。それでも四五日は私の家の周辺をうろついていたが、十日もすると姿を見なくなった。

 今思い出し乍ら私はペンを取っている。私はその時その破壊の執念と、取られた後の淡白な行動をつなぐものは何かと考えた。勿論それは愛情と愛情の消滅であろう。併しあの際立った激情と淡白は何によるのであろうか。私はそこに考えられるのは仔犬の鳴き声しかないとおもった。餌を探して外をうろつく親犬と、床下の仔犬をつなぐものは乳を欲る仔犬の鳴き声である。淡白というより無関心になったのはその声が聞えなってからである。斯る声とは一体如何なるものであろうか。

 私はそこに生命形成を見ることが出来るとおもう。現在地球上の諸々の生命の形相は、生命発生以来三十八億年の年月によって形成し来ったものである。無限の生死を介し、無限の生死の総括として現在の生命の形はあるのである。無限の生死を介するとは、生死を超えて、生死を繋ぐものがなければならない。私は断るものを声に求めることが出来るとおもう。声は呼びかけるものである。そこにあるのは我でもなければ汝でもない。我と汝があるのである。呼びかけ応えるところより我と汝が見られるのである。呼び応へるところに我と汝が見られるということが世界が露わとなるということである。われわれが言葉をもつということは、われわれは露わとなった世界の内容としてあるということである。私達がこの我が呼ぶとおもうのは、世界の一つの内容として世界形成的にあるということである。言葉とは世界が呼び交すことによって自己を露わにしてゆくものとして、露わにするものを蓄積し、世界形成の核となるものである。呼び交すことによって世界は自己を形成するものとして、無数の我と汝を内に包み、無数の我と汝を内にもつことによってより大なる中心へと歩みを進めるのである。斯る我と汝の呼び交しが世界が世界を見るものとして、世界が世界を見るということがこの我が我を見るということである。

 私は犬の生命形成も呼び応えるものとして声の形成にあったのではないかとおもう。 仔犬の乳を欲る声は三十八億年の生命形成の声なのである。その声に随うことによって自己の生命を見ることの出来る声なのである。猛烈な壁の破壊は、それに背くことによって己の命も失うものの行動であったとおもう。仔犬の乳を欲る呼び声は、犬の種が太初より形成し来った現れであり、未来に形成してゆく立脚点なのである。個々の生死を超えて種の存続をあらしめるものの現れである。そこに個の生命があるのである。生命は生死するものが、無限の過去と未来を内にもつところにある。個は無限の時を映すことによって個である。呼び交す個は逆に呼び声の中に生命をもつのである。私は斯る無限の形成的時の声が命令として親犬にはたらくのであるとおもう。そこに生きるものとして、親犬の必死の行動があったのであるとおもう。

 生命は生死するものであり、生死することに自己を形成するものである。死生転換として内外相互転換的である。私は声もそこに生れるのであるとおもう。仔犬の声は餓死を生に転ぜんとする叫びである。親犬の応えは種の中に生きてゆく自己の死生転換である。そして叫びには常に応答が予期されている。私は声の円環性とでも言うべきものがあるとおもう。背後に世界の自己形成というものがあるとおもう。円環性をもつとは自身に完結をもつということである。声を発するところを初めとして、応ふるところの終りをもつのである。初めと終りを結ぶのである。或は応えがないかも知れない。亦応えは必ず死を生に転ずるものとは限らないであろう。併しそこは無限の時を包む生命形成の現在としてあるのである。生命がそこにあり、それによってあらしめられるものに生きるのである。一々の呼び交しを一つの完結として、生命形成は完結より完結へと転じてゆくのである。私はカントの無条件命令というものも斯るものに根底を有するのであるとおもう。それは我の声でもなければ汝の声でもない、我と汝は対立し否定し合うものである。そこから完結は生れない。併し我の声、汝の声なくして声一般というのはない。生死をもつものは生一般ではなくして、何処迄も個としてこの我、汝である。完結をもつとは、この我汝の一々の声が形成的生命の無限の時を蔵することである。時の蓄積を担うということである。そこに個は個を超える、我の声、汝の声は世界を表わすものとなるのである。我と汝がそこに見られるものの声となるのである。我と汝の矛盾と対立も世界が世界を見るものとして呼びと応へをもつのである。そこにわれわれは飜えりをもつのである。我の声、汝の声が世界が世界を形成する声となるとき、われわれはそれに随わざるを得ないのである。

 人間は自覚的生命としてわれわれは声を言葉としてもつ、言葉は無限の時を蓄積するものとして、それは最早生得的なものではない、学習し、思惟するものである。生命発生以来の死生転換の総括として技術的構成的である。矛盾に生きて来たものとして、激情、絶望、希望、理想、悔恨、慰謝、救済その他全てを内に包むものである。斯るものとしてわれわれは言葉に表われることにあるものである。われがあるとは言葉に表白することによってあるのである。それによってわれわれは危機に対するのである。死生転換をもつのである。否言葉によって自己を見出したわれわれは、言葉が危機を作り、言葉が危機を救済するのである。そこに言葉は自己の豊饒を実現してゆくのである。言葉が自己の豊饒を実現するとは、何処迄も我と汝が死生転換の対話としてあり、我と汝の対話は言葉に於てあるということである。そこは我があるのでもなければ世界があるのでもない。世界が世界を形成するということがあるのであり、我と言葉は世界の自己形成の内容としてあるということである。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」