諸悪莫作、衆善奉行という言葉がある。私達はより善き世の中を作り、そのためにより善き人であらんと欲する、善とは何かは古来人間行為の基本的価値の問題として幾多の人によって求められて来た。併し浅学なる私は私の内面の要求に真に応えるものをもっていないのに気付く。以下私は私なりに自分の内面に入ってゆきたいとおもう。

 我があるとは生命としてある、この我が生きてゆくところにある、斯かるものとしてわれわれの問いの第一は我とは何ぞやであり、生命とは何ぞやである。私は善とは何ぞやの問いも断る問いの中に於て問われなければならないとおもう。生命は物質より生れたと言われる、物質は無限大のエネルギーの爆発より出現したと言われる、エネルギーより物質が出現し、物質より生命が生れたというとき、エネルギーも、物質も、生命も不可知者である。エネルギーも、物質も、生命も現存在としてあると言わなければならない。勿論現存在としてあるとはこの一瞬の現実としてあることではない、変化することによって自己を維持するものとしてあるということである。移るものとしてあるということである。力とは対立をもつことである、エネルギーはそのもつ対立に於て遷移をもつのである。対立に於て遷移をもつとは、形は常に対立するものによって限定されるということである。

 生命は三十八億年前に出現したと言われる。生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂取して身体を作ってゆくのである。内外は相互転換的として相互否定的である。有機体は食物を有機体にもつ、求むべき対象は個体として自己維持を図るものである。それは抵抗をもち、それに出逢うのは偶然である。生命の否定は死を意味する、内外の相互否定は死をもって対するのである、死に面して生への転換を図る努力から生命は身体にさまざまの機能を創り出すのである。人類の祖先も単細胞動物の項に、同じ単細胞動物に幾億年か食われ続け甲殻をめぐらす身体をもったと言われる、それが現在の骨格の基礎になったと言われる。新しく甲殻をもった生命の出現ということは既成の生命から考えられないことである。私は遺伝ということからも考えられないとおもう。それが考えられるのは生死を超えて、生死に自己を見てゆくものが自己自身を限定してゆくと考えられなければならない、私は突然変異が生命のより基礎的なものであるとおもう。光エ ネルギーより物質へ、物質より生命へと変じた宇宙の存在者は量るべからざる変化をもつのであるとおもう。それが生命に於て内外相互転換的に形成的として出現したのである。内外相互転換的に形成的であるとは欲求的ということである。欲求は内外が対立することであり、対立することは相互否定的として闘争することである。而して個体は斯る闘争に於てより大なる形相を実現してゆくのである、より大なる形相とは生命がその一を実現することである、宇宙的一を実現することである。個的生命は身体的形成として何処迄も欲求的であり、闘争的である、闘争的とは形相実現的として普遍的生命の実現することである。

 私は人間を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは自己の中に自己を見るものである、本来の相が露わになることである。私はそれを形の創造に見たいとおもう、個体が何処迄も闘争的であり、闘争が形相実現的であるとは、対立は形相実現的にあるのでなければならない。形の創造とは何処迄も否定的対立としての闘争の陰にかくれ 形相を表現的に露わにすることによって内面的発展をもたしめることである。そこに私は経験の蓄積があるとおもう、経験の蓄積とは一瞬の内外相互転換を把持し、現在の行為を時の統一の内容とすることである。昔の農暦は播種、施肥、収穫等の日を経験によって定めたものであった。そこに内外は対立するものではなくして一なるものとなるのである。外は偶然的存在ではなくして内を宿すものとして必然となるのである、人と人とは闘うものではなくして協調するものとなるのである。より大なる生産の為に集合するものとなるのである。本来の相が露わとなるとは対立の根底の一が具現することであり、そこに生命の自覚があるのである。

 善への意志は私はここに生れるとおもう。自覚は経験の蓄積として一挙に現われるのではない、外を必然たらしめるとは外を変革することである。それは額に汗して働く努力で ある。力の表出は外を内とすることである、外を内ならしめるとは、自己の内にもつ力により食糧を多大ならしめることであり、それはより大くの人類を養い得ることであり、内を大ならしめることである。斯る努力の繰り返しの中に現在を未来に投影し希望をもつものとなるのである。私は希望をもつとは本来の自己を更に一歩踏み込んで露わにしたものであるとおもう。生命に具現した宇宙的生命は文に大なる形相を実現したのであり、更に大なる発展を内在せしめたのであるとおもう、善への意志は斯る希望がその形相を実現せしめんとするにあるとおもう。私はそこに善とは何かがあるとおもう、それは全身を挙げて宇宙的生命の形成に努力することである。この我は個体として無数の個体に対するものである、我は汝に対することによって我である、汝は亦我に対することによって汝である、汝に対することによって我であり、我に対することによって汝である個が全身を挙げて宇宙的生命の実現に努力するとは、宇宙的生命は我と汝が対するということでなければならない。個体の一々は宇宙的生命を担うものであり、対するということは宇宙的生命が実現したということでなければならない。一々の生命が宇宙を映す、それ以外に宇宙があるのではない、もしそれ以外に宇宙があるのであれば個が宇宙的生命の実現に全身を挙げるということはあり得ない筈である。而してそれが我と汝の対話によって実現するとは、宇宙的生命は我にあるのでもなければ汝にあるのでもない、宇宙が宇宙を見てゆくところにあるのでなければならない。個が全であり、全が個である、一即多であり、多即一である、そこに形成があり、形成は常に矛盾の自己同一である。私はそこに善への意志がある とおもう、そこは自己形成が世界形成であるところである。そこに善の直覚が生れるのであるとおもう。それは対話の底から、世界の底からこの我の自己実現として命令するものである。私はカントの無条件命令の声は宇宙創生以来の大なる形成の継承として捉えたいとおもう。良心の声は斯る形成に即するのであるとおもう、良心の声はそれによって自己がある世界形成の声である。

 善は反極に悪をもつことによって善である、単なる善というのがあるのではない、善は は悪に対することによって善である。善に対する悪とは如何なるものであろうか、私は善が世界形成から考えられる以上、悪も亦世界形成から考えられなければならないとおもう、世界形成に於て相対するのである。私達は世界を言葉によって見出す、人間が言葉をもつのは言語中枢をもつということである。言語中枢は人間のみにあると言われる、人間のみにあり、人間を万物の霊長とすることは、言葉は生命の発展の究極としてあるということである。生命は機能の複雑化とその統一として進化してゆく、後より現われたものはより大なる時間・空間の統一者として、その統轄は過去に形成された機能を従属せしめるものである、言葉は言葉によって全機能を指示するものとなるのである。言葉は己れの純なる形相を全機能に於て現前せんとするのである。 宇宙的一の形相たらしめんとするのである。それに対して従前の機能は身体的に個体保存的であり、種族保存的である。斯くして身体は二重構造的でありつつ行動的一である。二重構造でありつつ一であるとは如何にして考えられるのであるか、私はそこに個体保存的、種族保存的なものが自己の中に自己を見たところに言葉があるとおもう、自己の中に自己を見るとはより大なる空間、より大なる時間をもつものに転態したのである。言葉の内容となるとは個体保存的、種族保存的なものがなくなったのではない、より大なる力を獲得したのである。物の製作はより優れた個体、種族の具現としてあるのである。二重構造は斯るものとしてあるのである、何処迄も生命 は個体的としてこの我に見る方向と、世界の自己形成として見る方向である、それが動的 に一なるのが生命形成である。而して言葉はこれを分つものとして言葉である、分つものとして一方に世界を見、一方に自己を見るところに自覚があるのである。より大なる時間空間は分離と統一より生れるのである。分離と統一より生れるものとして、何れもそれは根源的である。この我や汝の個なくして世界はないと共に、世界なくしてこの我はない、ここに私達は個に執し、世界に執する所以があるとおもう。何れかを軸としてわれわれは行為をもつのである。そこに善と悪が生れるのであるとおもう、世界の自己形成に副うのが善であり、背くのが悪であるとおもう。

 世界は対話的形成であり、対話は我と汝である、我と汝が対話するとは、我は汝ならざるもの、汝は我ならざるものとして対話するのである。それが世界形成的であるとは、我は我の中に世界を映し、汝は汝の中に世界を映すものとして対するということである。世界を映すとは世界形成としての技術と物を自己の内容とすることである、技術と物を所有することにより我は我となり、汝は汝となるのである。対話するとは技術と物の所有に於て対話するのである、世界形成とはより大なる技術、より豊富なる物を産むことである。それは技術の蓄積が技術を産み、物の蓄積が物を産むのである。技術と物とは相互形成的に生産を増大してゆくのである、われわれは世界を映すものとしてより大なる技術と物の所有を世界より要請されるのである。要請されるとは世界を表現せんとすることである。我と汝は世界を表現するものとしてその技術と物に於て蓄積を争うものとなるのである。斯る争いが世界の要請として機能せず、この我の実現の欲求としてはたらいたときに悪が生れるのである。争いは建設の争いではなくして破壊の争いとなるのである。世界形成に背くものとなるのである。争いが世界形成に収斂されるとき和となるのである。それが善と言われるものになるのである。

 斯るものとして善悪はものの表裏である、悪なくして善はない、善なくして悪はない、 自己は何処迄も自己を見てゆくものである。而して見出でた自己は悪である、それが善であるためには見出でた自己は常に捨ててゆかねばならないのである、形の実現は常に我に見出でた世界の形であり、世界を映した我である。それは我として世界ならざるものである。それは知慧の果実を食ったことによって背負わされた人間の原罪である。形の実現は我の実現である。われわれは表現に於て自己を見るのである。而してそれは自己が世界を映したものとして世界の実現である。斯る世界の形に我を見るときそれは悪となるのである。私達は絶えず自己否定をもたねばならないのである、絶えず世界へ転ぜねばならないのである。休むことなき世界創造の内容となることが善である。世界創造は一と多、全個の否定的形成である、世界を否定して我を見るときに悪となり、その我を世界の中に転ずるときに善となるのである。斯る関係は逆説的である、私は親鸞の罪深重の自覚に真の善なる意志の成立があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」