呪いについて

 塚本国雄は曽って「斎藤茂吉の歌には呪力があると書いていた。また何時、誰が言ったのか忘れたが「柿本人麿の歌には呪がある」と書かれいるのを読んだことがあり、「源実朝の歌には呪がある」というのも読んだことがある。今日本棚から昭和五十年代の歌誌『短歌』を引っ張り出して開いたところに、山本健吉、岡野弘彦、前登志夫の鼎談の如きがあ り、冒頭に、

前「吉野万葉の根源というのは、呪なんですね。近代というのは、歌の根源に呪があるということを忘れているんですよ。呪だと、僕は思いますね、言問・聖なるもの。

山本「マジックね。

前 「バシュラールがそれを言ってるんですよ。」

山本「それは折口先生が言ってますよ。歌の根源は呪歌だということはね。」

前 「それはもう、折口説の一番根源ですね。」

山本「呪力というのは魔なんですよ。」

前 「ヨーロッパの偉い奴というのは、リルケにしても、ヘルダーリンにしても、全部東方のある根源みたいなものに触れていますね。」

―五行省略 –

山本「私の言っているのは魂論だもの。魂論をやらなくちゃ、死ねないわけだ。以下略。大歌人の創作の根底に呪力があり、作歌の根源に呪があるといわれる。呪とは一体如何なるものであろうか。

 広辞苑には、1.のろうこと。「一咀」 2.まじない。 「一文」 「-術」「巫ー」 3.[仏] 陀羅尼。真言。神呪。 と書いてある。更に陀羅尼の項には、だらに(陀羅尼)(梵語、総持、能持と漢訳。よく善法を持して散せず、悪法をさえぎる力の意) 梵文の呪文を翻訳しないで、そのまま読誦するもの。一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受けるといわれる。私は以上から推して山本健吉氏の「呪力というのは魔なんですよ」と一概に言われないようにおもう。成程1の呪咀から言えば魔である 併し3の陀羅尼から言えば仏であるようである。両方にとれるということは私は両者を超えて両者を統一するものとして捉えなければならないとおもう。それは神として出現すると共に魔として出現するものであるとおもう。そこに短歌の根源となるべきものがあるようにおもう。短歌は神でもなければ魔でもない。相克の中から神の相貌が出現し、魔の相貌が出現するものである。私はそれを生命形成に求めたいとおもう。生命が自己の中に自己を見、自己を形作ってゆくところに呪があるとおもう。

 生命は内外相互転換的に形成的である。外を食物として、食物を摂ることによって身体を作ってゆくのが生命形成である。私達は斯る食物を有機体に求める。而してその有機体も他の有機体を食物として求める生命である。生命は食物連鎖として生命に対するのである。そこは弱肉強食の世界であり、自然淘汰の世界である。生命と生命は相互否定的に、生死をもって対するのである。斯く死を以って距てるものが他者であり、外である。生命が外としての環境をもつということは死に囲まれていることである。生命が内外相互転換的であるとは斯る死を生に転ずることである。死として迫ってくるものを生に転ずるのである。食物を摂るとは対手に打ち勝ち、対手を食物として食うことである。死として迫ってくる対手に打ち勝つことは、より大なる能力をもち、より大なる生命の形相をもつことである。そこに生命が内外相互転換的に形成的である所以があるのである。形とは死の底から見出した生の相である。

 私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚とは自己の中に自己を見ることである。われわれの自己とは形成し来った力であり、形である。斯る自己が自己の中に自己を見る生命であるのである。形や力は死生転換の中より生れてくるのであった。 斯るものが自己の中に自己を見るとは、一々の死生転換が蓄積的となることである。蓄積的となるとは昨日と今日、去年と今年の死生転換が一つの形に於て捉えられることである。昨日と今日を一の形に於て捉えるとは、例えば大水で木が倒れ魚が逃げ場を失って集っていたのを獲ったとする。すると今度は木を倒して魚を獲るが如きである。一々の内外相互転換が経験として蓄積されるのである。斯る経験の蓄積が製作である。倒した木から魚の逃亡を防ぐとか様々の工夫が生れるのである。そこからわれわれは形をもち、物を作るのである。そこから自己が生れ、対象を見るのである。

 私はそこにわれわれの生命は大なる飛躍をもつのであるとおもう。われわれの生命は身体的形成として一瞬一瞬の内外相互転換的である。斯る一瞬一瞬の内外相互転換を超えて昨日と今日を統一する生命となるとは、与えられた身体的生命を超えるということである。一瞬一瞬に消えていった生命が、一瞬一瞬をあらしめるものとして形をもつのである。製作は経験の蓄積として、形の中に形を見る内面的発展となるのである。より緊密なる内と外との形による一の実現として、外を内に映し、内を外に映して無限に自己を形成するものとなるのである。そこに生命は自己の存在の根源に還るのである。生命は前にも書いた如く生死する生命である。而して生死によって自己を形作ってゆく生命である。生死に於て形作ってゆくとは、生死は、生死を超えたものの現れとしてあるということである。私は製作に於て一瞬一瞬の営為を超えて時の統一をもつことは、斯る生命の根源がこの我に於て形に露わとなったということであるとおもう。斯くして私は製作は我をあらしめる宇宙を我とならしめることであるとおもう。製作は常に我を超えた大なる力をあらしめるものであり、大なる展望をもたしめるものであるとおもう。私は呪というものもここにあるとおもう。限りなき過去から限りなき未来へ我をあらしめるものが、今の我に対するときに呪があるとおもう。

 製作は生死する生命が生きんとして死を克服する努力より生れるのである。より大なる生命は外を内に転ずるところより来るのである。そのときわれわれはより大なる力を転ずべき外に見るのである。私は自覚としての製作に於て人類が無限の力を獲得することは、一面に於てこの我が無限に小さくなることであるとおもう。自覚としての内外相互転換に於て内と外は何処迄も対立するものである。有機的生命としての内外相互転換に於ては、外が内に転ずることは直に外が身体に転ずることである。併し製作に於ては物として、我ならざるものとして、我ならざるものが我の影を帯びるものとして出現させるのである。外が身体に転ずるとき、われわれの生命は身体を超えることが出来ない。製作は我ならざる物を作ることによって、われがその中に生きる世界を作るのである。而して身体的形成が時の統一であるとき、身体的形成はその根源に深く製作的生命をもつのである。製作はこの驚異すべき生命の根源を開示するのである。而してその開示が物として、世界として展開するとき、無限の空間・無限の時間の中に立つわれは宇宙の一塵の嘆き、うたかたの生命のかなしみをもつのである。

 生命は自覚に於て超越的なるものと内在的なものが対立するものとなるのである。 命が内外相互転換として形成的であるとは、本来外を超越として、身体を内在として断絶をもつものの交叉としての無限の運動であった。製作としての自覚はそれが顕在化したものである。死として、否定として迫ってくるものに無限の力を感じ、その力を映すことによって自己を見、自己の力をもつのが製作である。われわれは否定されるもの、殺されるものとして自己を何処迄も小さき存在とするのである。自己を小さき存在とするものは大なる存在を知るものであり、それは否定的転換に於て無限に大なる自己を見出させてくれるものである。私は呪とは斯る生命形成の自己直観であるとおもう。

 私はまじないとか、のろいというものも斯かるところに成立するのであるとおもう。原始社会の生態を求めて、ペルーの田舎に住み、其の土地の人々と深く交った佐藤信行氏は其の著『呪術の帝国』の中で「部落境の山道の峠や村境の山頂は、村へ災が入りこむ危険な場所である。アンデス山岳の山道を旅行すれば、処々に小石を積んだ塔を見かける。ときにはその上に十字架が立てかけてある。これはアバシュータと呼ばれるもので、峠には必ずといっていいほどである。旅人はここで精霊たちを拝んで道中の安全を祈願する。インディオは小石を一つその上に置き、「アベ・マリア」を唱える。これをおこたったり、積んであった石にけつまずいてけちらしたりすると天候が悪くなる。しかしこうしたことよりも村境の峠を聖なる場所としているのは、じつは、村に災の入るのを、ここで未然に防ぐための村の神、部落の神への奉斎の場所なのだ。と書いている。ここでは小石を積むことがまじないとなっている。小石とは一体何なのであろうか、私は小石に見出した力があるとおもう。山中にあって食物連鎖的に対立するけものなどに逢ったとき、最も素速く対応出来た武器は小石であったであろう。つい最近迄印字打ちといって礫は有力な戦いの武器であった。祝して他に木片位しか太古に於ては一撃よく敵を倒す礫は最も大なる武器であったとおもう。私はそこに古代人はわれわれを超えた石のもつ力を感じたのであるとおもう。それはわれわれをして死を生に転じさせる力であり、われわれの生死を支配する力である。われわれはその力によって生きるものとなるのである。われわれはそれによって生きるものとしていと小さきものとなり、石の力はいと大なるものとなるのである。われを超えてしめるいと大なるものは聖なるものである。石を積むとはその大なるめることである。積むという行為によって力のイメージを喚起し、悪魔退散のイメージを構成するのである。そして湧き出てくるイメージによってこの微小なる自己が大なる力と同一なることを感応し、そこに自己の生存を見るのである。

 私は前に呪の根底に製作的生命の自己形成があると言った。製作は経験の蓄積であり、経験の蓄積は外を内とすることである。敵に向って石を投げることは石を手の延長とし、拳の延長とすることである。無限の力は自己に環境を映し、環境を自己に映すところより生れ来るのである。石を積むということは単に石を集めたということではなくして、動きゆく全存在の自己形成力を見たということである。よく田舎に行くと『除蝗之害』といった貼紙がしてあったものである。いくら田舎だといっても、その貼紙によって蝗の害が除けると思っているものは居なかった。それでも貼っていたのは何によるのであろうか。私は文字を作り、文字に見出した大なる生命の一つとしての我が家、この我をそこに感じ、存在の根源に接する安心をもったのではないかとおもう。勿論自己の思考よりずれているものを何時迄も抱いているのは邪道であり迷信である。それなれば正しい思惟というのは何処から来たのであるか、私は内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのであると思わざるを得ない、外を映したということは物として外を作ったということである。われわれが技術をもつ自己となったということである。作られた物を外として、技術的自己を内とするのである。斯くして作られた物と技術は相互否定的に無限に発展するものである。斯る無限の形成的発展は外としての偶然を必然に変えてゆく、そこに因果律が成立する。偶然としての内と外との転換は技術に於て必然となるのである。外を内に転ずることによって、外としての我ならざるものが、内としての我の秩序の内容となるのである。身体の秩序を宿すものとなるのである。斯く外を内に転じ、身体の生命形成の秩序に随わしめることは、経験の蓄積として時を包むことである。過去・現在・未来を包むことである。時の体系をもつことである。それが因果律である。正しい思惟とは製作的生命として因果の道理に随うことである。随わざるものを迷信とするのである。

 しからば斯る迷信というのは何処から来たのであろうか、生命に於て内外相互転換は休むなき無限のはたらきである。それを失なうことは死である、それによって自己を形成してゆくのである。製作的生命に於ては自覚的として無限に自己の中に自己を見てゆくのである。外を無限に自己の中に蓄積して新しい形を見出してゆくのである。製作したものを外として、それを映すことによって更に新しい形を見出してゆくのである。私は迷信とは未だ因果律の体系とならざる最初の内と外との転換が、必然としての因果の目より見られたときに成立するのであるとおもう。最初に於ては時としての過去・現在・未来の体系が未分化である。未分化であるとは内として身体の秩序が外化していないということである。生命の本能的欲求がそのまま露わになっているということである。身体の直接の表出は情緒である。喜怒哀楽に於てはその一々が完結して分つべからざるものである。情緒的表象に於てあるものは同時存在的である。 そこでは未だ現れざるものを現われた形に於て規定してしまうのである。時は無限の否定である、時に於て形が生れるとは前の形を否定して新たな形が生れることである。この新たに生れた形が既に未来の形として先取された形と対立するとき、先取された形は迷信となるのである。新しく生れた殺虫剤が『除蝗之害』 と書かれた守護札と対立するとき、守護札は迷信となるのである。

 迷信や咀いは克服されたものとして最早あるべきものではない。併し私はそれが曽って有ったものとして、克服さるべくあったものとしてその根源的なるものははたらきつづけ現在をもあらしめるものであるとおもう。それが克服されることによって新しい形が生れたということは、古い形が死んで新しい形が生れたということである。製作としてのそれは自己の中に自己を見たということである。生命は何処迄も内外相互転換的である。自己の中に自己を見たということは、内を媒介した外はいよいよ大なる外となるということであり、外を媒介した内はいよいよ大なる内となるということである。いよいよ大なるものとはそれを包んだ形が生れることである。私は合理的なるものは迷信の中より生れたのであるとおもう。それを貫くものは共に生命が内外相互転換的に自己の形を見出したものであるということである。そこに合理的なるものが迷信より生れ、迷信は合理的なるものに包まれる所以があるとおもう。私は断るものとしてまじないに現れ、咀いに現われ、芸術の創造的根源に現われる呪を求めたいとおもう。

 内外相互転換的に形成的であるとは、生死を超えて生死に自己の形を見てゆくものである。形は生死しつつ生死を内に包むものである。そこに生命の形がある、全ての生命の形は、生命発生以来の三十八億年の生死の上に成り立つものである。生死の上に成り立つとは生死を内に包むことである。生死の上に成り立つものとして、絶えず生死しつつ維持してゆくのである。維持してゆくとは三十八億年の上に現在を加えて包んでゆくということである。生死に於て自己の形を見るということは生に死を映し、死に生を映すことである。死は何処迄も我ならざるものとなることである。今生きているこの我が否定されることであり、無くなることである。而して死に生を映すということはそこに真個の生があるということでなければならない。死が絶対の無となることならば、そのことは絶対の形が現れるということでなければならない。私はそこにこの我の転回がなければならないとおもう。それは生死の矛盾を自己とするものである。それは今の喫茶喫飯を三十八億年の営為の上になす自己である。環境と主体、偶然と必然を自己となすことである。世界が世界を創り、宇宙が宇宙を見るのである。太初よりの無限の力がはたらくのである。そこに自己となるとは、このわれはその大なるものの現れであり、大なるものの現れとしてわれがはたらくということは大なるものがはたらくことである。このわれの生死をこの大なるものの現れと知るとき、絶対の無は絶対の有となるのである。道元は木も一時の位、灰も亦一時の位という。私は彼は斯る立場から語ったのであるとおもう。生も一時の位であり、死も一時の位であるのである。生を死に映し、死を生に映すときに形成があるのである。そこに生命は自己を見ゆくのである。

 外は何処迄も内ならざるものである。若し外が直に内であるならば内外相互転換のはたらきはなく、そこに形成作用を見ることは出来ない。内を映した外は内となるのではない、いよいよ大なる外となるのである。われわれが死を生に転ずべく努力した外はいよいよ大なる死をもって迫ってくるものとなるのである。矢は弾丸となり、重火器となり、爆弾となり、原子爆弾となるのである。敵を殺すものは自分をも殺すものである。そこに相互転換的世界があるのである。環境として否定して来るものを変革することは、亦われの変革を要求するものを作ることである。そこに技術としての無限の形の展開があるのである。よく言われる時代が違うという言葉はここより出てくるのである。外が何処迄も内ならざるものとして、環境が我ならざるものとあるということは、内と外、我と物との出合いは偶然ということでなければならない。太古に獲物を求めて山野を歩いた人々にとって木の実やけものに出逢うか出逢わないかは全く偶然であった。それはたまたまという言葉に言い表わされるものであった、経験の蓄積とはそれの蓄積である。私達は経験の蓄積によって自己の行動の体系の中に組込んでいった。内を外に映したのである、身体の秩序に随わしめたのである、そこに偶然が必然となったのである。併しそのことは偶然がなくなったのではない、偶然は必然に対するものとしていよいよ大なる偶然となったのである。生命は何処迄もわれならざるものに対するのである。

 われわれは単にわれならざるものに対するのみではない。われの出で来るところもまたわれならざるものである。私達は親より生まれる。親はわれならざるものである、われならざるものより生れ来ったものとしてこのわれの出生は偶然である。父と母の結婚も偶然である。私が母に受胎された日に若し父が所用があったとすれば、他日父母の間より生れたのはわれならざるものである、われと言えるものの存在は斯るあやうさの上にあるのである。偶然として、われならざるものとしてこのわれがあるということは、このわれはわれならざるものの現れとしてあるということである。われならざるものとしてこのわれをあらしめるものは、このわれを超えた大なるものでなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものでなければならない。併しそれが見るべからざるものであるとき、その現れとしてのこのわれはあり得ないものとならなければならない。そこに見るべからざるものが見られるという意味がなければならない。私はそこにこのわれの自覚があるとおもう。大なるものの現れとして、このわれが自己を見ることが大なるものを見るということなのである。このわれは生命として出現する、生命として出現したものとして生命維持の欲求をもつ、併しそこには未だ自己を見るということはない。自己を見るというには大なる生命に自己を映すということがなければならない。このわれがそれによってあるものとして見るべからざるものであるというのは、そこに自己を映し見るということがないからである。自己を見るということは大なるものに映したということであり、大なるものが現われたということである。それが前に書いた製作的生命である。製作的生命としての経験の蓄積はわれをあらしめるものが自己実現的にはたらくものとなったということである。このわれが見るのではない、大なる生命が自己を見るものとして、このわれに現われたのである。而してこのわれを大なる生命の現れとして、大なる生命が自己を見ることは、このわれが自己を見るものとして現われるのである。私はわれわれの自覚はそこに成り立つとおもう。自覚は大なる生命が自己を見るところに成立するのであり、それはこのわれの自己実現として、われわれは無限の努力をするのである。努力とはこのわれの欲求を超えて大なる世界を実現せんとする営みである。身を捨てて根源的なる ものを出現させんとするのである。そこに内外相互転換はあり、蓄積があるのである。 自覚的生命としてわれわれの営為は無限に自己の中に自己を見るはたらきである。自己の中に自己を見るとは見られたものが見るものとなり、作られたものが作るものとなることである。私は曽って刃物を商うものであったが、作られた刃物は更に鋭利なる力能を呼ぶのである、更なる硬度を、更なる研磨を求めるのである。勿論一片の鉄が呼ぶのではない。人間がおれの生命の形相を発展させる営為としての、截断の能力に於て呼ぶのである。刃物の能力は生命の形相実現としてのこのわれの能力であり、その力が、力の中に更なる力を求めるのである。そこに刃物の呼び声があり、われわれはその所有する技術を切磋しそれに応えんとするのである。そこに作られたものが作るものとなり、見られたものが見るものとなるのである。私はわれと物はそこから現われるのであるとおもう。我というものがあるのではない、我は物によって現われるのであり、物というのがあるのでもない。物は我によって現われるのである。物が我によって現われ、我が物によって現われるということは、我と物はより大なるものの現われとしてあり、物と我はより大なる形相としてあり、より大なるものの形相実現的にはたらくものとしてあるということである。斯るものとしてより大なるものは全存在ということでなければならない。われわれの意識の上にあるもの、現れてくるものはより大なるものの形であり、より大なるものが自己の中に見た自己の姿でなければならない。自己の中に自己を見るとは、見られたものが見るものとなることとして、より大なるものが自己を見るとは全存在が自己を見ることである。全存在がはたらくものとなるのである。色が色の中に色を見、音が音の中に音を開くのである。距離が、土が、硬さが、重さが、森羅万象悉く自己の中に自己を見るものとなるのである。勿論土や鉄が内面的発展をもつのではない、われわれの製作を媒介として潜在す るものを露わにするのである。色彩は画家の目を通じて自己を露わにし、音響は音楽家の耳を通じて自己を露わにするのである。土は農夫によって、鉄は鍛冶工によって、木は大工によってそれぞれ自己を露わにしてゆくのである。世界は爪楊子のようなものから航空機のようなものまで数知れない種類の物があり、それを作る職業人がいる。それによって形が生れるのであり、それは全てより大なるものが自己を露わにしてゆく姿としてあるのである。この全存在がより大なるものによって統一されてゐるのが世界であり、より大なるものは世界が世界を見、世界が世界を作るものとして自己を実現してゆくのである。われわれもそこに見られるのである。私は呪とは斯くこのわれがはたらく根底に世界としてのより大なるものの自己実現のはたらきを見ることであるとおもう。

 このわれの根底により大なるもののはたらきがあるということは、このわれはより大なるものの現れとしてあり、現れとしてあるとは自己の中に見出でた自己として、このわれがはたらくことがより大なるもののはたらくということでなければならない。形成作用はそこにあるのである。自己の中に見出でた自己が、更に自己の中に自己を見るのである。そこにより大なるものは自己の形相を鮮明ならしめるのである。一本の爪楊子を削り、一 枚の鎌を鍛えることは、より大なるものが自己を実現する行為として世界を形作ることである。このわれは世界を実現するものとして、はたらくことは世界を内にもち、世界を見るものとなることである。このわれが世界を現わすものとなることである。前に書いた如く、このわれは宇宙の一塵にも比すべきものである。併しこの一塵ははたらくことによって全存在を自己の現れとするものである。

 併し全存在を一塵の現れとなすことは一塵が全存在となることではない。一塵は何処迄も一塵として、全存在の現れとなることが出来るのである。死するものが生きんとする努力に於て出現するのである。うたかたの命の悲しみの中より転ずるのである。生死する身体に具現するのである。生死する身体の具現として、絶対現在として具現するのである。内外相互転換としての生命形成に於ては、内外は常に対立しつつ一である。一即多・多即一として生命は形成してゆくのである。一の方向に世界が成立し、多の方向にこのわれが成立するのである。而して形成とは世界にこのわれを現し、このわれに世界を現わすことである。内外相互転換的に世界とわれが現われるのが今であり、今が生命形成の形として無限の過去と未来をもつのが絶対現在であり、永遠の今である。一を見るのでもなければ多を見るのでもない、一即多・多即一を見るのである。消えてゆくことが現われることである一と多を超えて包むものを見るのである。生死として自己を現わしてゆくものを見るのである。生死するこの我が一瞬一瞬の営に於て、生死として自己を現わしてゆくものに触れるのが絶対現在である。生死として自己を現わすものは全存在である。今に於て全存在がこのわれに現われるのである。私はそこに呪の実現があるとおもう。呪とは内と外、世界とわれとが動転しつつ絶対現在としての形を実現することであるとおもう。般若心経にも「故知般若波羅密多。是大神呪。是大明呪。是無上呢。 是無等等呪。」と説く。 色即是空としての有限が無限、刹那が永遠としての形相実現に呪を見るのである。それは対立するものが一として無限のはたらきであり、一なるものが自己を見るものとして形より形へである。そこに創造の根源があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」