名歌評釈

 先日「みかしほ」の二、三の女人と歌を語る機会があった。そのとき近代の女人短歌の異色作とでもいうべきものを、継続して紹介してゆくことを約束した。勿論私の評釈であり、私が感銘を受けた作品であるので、一面的であるの譏りを免れ難いと思うが御了恕ありたい。そのときに葛原妙子を最初にと言ったが、今手許に取上げたいと思っている歌の載っている本が見当らないのと、先に出したい歌があったので紹介したい。

 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 山中智恵子

 一読その声調の美しさに心を奪われる。鳥髪というのは地名であろうか、作者は今負うべきかなしみを抱いて立つのである。そこには霏々として雪が降っている。作者はそこで明日も降りなむと言う。その結句にはかなしみを閉じこめ、かなしみを永遠に凝固させるような力がある。結像した永遠のかなしみに、作者は「マッチ売りの少女」のような陶酔を味わっているのである。そこには対象化された透明な自己像がある。私はこの声調の美しさは、このような心情の投影であるとおもう。それにしても魔術とでも言うべき言葉の構成である。

 額に汗流して坂を登るとき無数の過去世の人と行き交ふ

 私の作である。山本礼子さんが十首抄に取上げたいと思ったと言った。私は取上げられなくてほっとした。実はこの一首の核とでも言うべき四句の「無数の過去世」は、五十年代にその鬼才をもって歌壇を震撼させた、高野公彦の代表作を剽窃したのである。出すべきではないと思ったが、この頃歌を作っていないので七首にすべく入れた。私は「みかしほ」の人々の鑑賞眼を軽視していたのである。この言葉が拓いた祖霊への新しい視点を捉える人はいないと思ったのである。目にもとめないと思っていたのである。それにしても山本礼子さんが発表される作品の勝れた感覚は偶然ではないと思った。次回は葛原妙子に したい。

名歌評釈(2)

 とり落さば火とならむてのひらのひとつ柘榴の重みに耐ふ 葛原妙子

 私はこの一首を読み乍らゲーテの幼時の体験というのを思い出していた。それはバラの花を見ているうちに、はなびらの中よりはなびらが溢れ出て、室がはなびらで満たされるというものであった。

 作者は今紅く熟した柘榴を手にもつのである。そしてそれを見ているうちに、自然の成した微妙な赤が、作者の心に無限の紅を生んでゆくのである。作者の目は微妙を見究めようとする。見究めようとすることで紅は拡がりを持ち全視覚を領ずるのである。次々と現われ来る紅は、紅が紅が煽るごとく成長してくるのである。作者はそこで「とり落さば火焔とならむ」という。私は以上を捉えてまことに巧な表現であるとおもう。斯る想念の展開は非常に力の表出を伴うものである。そこに結句の「重みに耐ふ」がある。

 私は氏の作品には形が形を生んでゆく、生命の創造に深く目を据えたものがあるとおもう。人間は望遠鏡を作り、顕微鏡を作って自己の視覚を拡大深化してきた。作者は言葉の操作によって、内的自己としての情感の目を深化拡大するのである。人類は色の中に色を見、音の中に音を聞くことによって、感覚と感情を養ってきたのである。

 書き乍ら私は何だか詰らないことをしているような気がしてきた。一寸も自分の勉強になっていないように思う。それで今月で止めたいとおもう。唯これを書くために女流歌集という一人三十首ばかり歌集を読んだ、以下少しその総括とでもいうべきものを書いておきたい。

 一人三十首位では読んだと言えるであろう、併し私は多くを読んだからといって必ずしも知ったということは出来ないとおもう。各作家には特色がある。特色があるとは個性的であるということである。個性的であるとは独自の核を持つということである。知るということはその核を掴むことであるとおもう。以下そういう面から私の感じたものである。

 前月号の山中智恵子は言った如く情感の結晶作用をもつとおもう。言葉による結晶作用は透明感をもたらせる。宝石箱を開けたような氏の歌は楽しい。生方たつゑは、女の情念を業として、女がある限りの宿縁として追求しているように思う。その激しさは読んでいて疲れが出る位である。重苦しいものが胸底に溜る。併しそれも一つの真実なのであろうか。斎藤史は死の鏡に生を写すことによって、生の幾多の面を私達に見せてくれるようである。初井しづ枝も透明な情感の結晶作用をもつ、併しそれは山中智恵子のそれではない、一瞬に触れ合う物と自己の交叉を映像化するのである。一つの情感の構成をもつのである。北沢郁子の健康な自我追求は好もしい。風土としての環境と自己を真面目に凝視しているようにおもう。上田三四二賞の講演に来た馬場あき子は生と死の葛藤、連続と断絶を、呪の熔鉱に近代知性を投げ入れることによって見ようとするように思われる。俵万智は上記の人々が身体に直接するものに於て、言わば血みどろになって闘っているのに対して、銀幕に自分を映し出してそれを詠っているようである。それだけに読む者も切迫感がない。それでいて余情にひたれるものをもっているようにおもう。

 以上読みとおして感じたことである。一回読んだだけだからひとりよがりであり、読み の浅さを免れ得ないであろう。唯核を摑むという読み方があるとだけ知っていただいたらとおもう。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」