勿体をつける

 つぎつぎと車過ぎゆきはるかなる動かぬ山に瞳置きたり

 例によって零点の、みかしほ八月歌会の私の詠草である。内藤先生が「この歌には骨がある、長谷川さん勿体をつけなさい」とのことであった。私は本来自分の歌を語るのは嫌いである。併し考えてみると稀には自己弁護も必要のようにおもう。それで勿体をつけてみる。

 この歌にもし見るところがありとすれば四句動かぬ山であろう。山は信玄の風林火山にもある如く、通念として動かぬものである。動かぬものを動かぬというのは、写生として最も拙劣なものである。それを敢て言ったのは、そこに自己の内面を表そうとが故に外ならない。勿論そこには目のやすらぎというものがあった。而して作者は目のやすらぎの根底に、変ずるものに対する不変なるものへの心の憧憬を感じたのである。

 祇園精舎の鐘の音は諸行無常と響くなりという、それは無常に対す常住への憧憬である。一瞬一瞬の移り変りに対する、永遠なるものへの愛慕である。動かぬ山は永遠の象徴のつもりだったのである。併し表現技術拙劣にして、理解の届く言葉を撰択することが出来なかったのは申訳ないことである。以上一寸勿体をつけ過ぎたかという心配もある。

長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」