剝落の美

 この度はじめて、歴史を知る会の旅行に参加させていただいた。生憎の雨であったが、顔見知りの方も四、五人居られ、殊に歌友の藤井早苗子さん、山本礼子さんも一緒であったことは、何となく気持を明るくさせてくれるものがあった。

 確か秋篠寺であったと思う。山本さんに「歌が出来ましたか」とたずねると、「仏像の 塗りの剥落した美しさに感動して、歌を作ったのですが、この剥落が自然に出来たものではなくて、このように作ったものであると聞いてがっかりしました。とのことであった。私は古物店などに並べてある、剥落した新作の仏像を思い浮べ乍ら、このような権威ある寺にもそのようなことがあるのだろうかと、ちらと思い乍ら聞き流した。

 それから一週間程経って、司馬遼太郎の『歴史を考える』という本を読んでいると、そ れに関連した記事が出ていたので、あらためて剥落の美について考えた。以下少々ながくなるが、要点のみを引用したいと思う。氏は言う。「中国や中国文化の影響下にあった国へ行きますと、よく寺院や道教の観、或は何とか廟といったものがありますね。そうゆうお寺の装飾性にびっくりさせられてしまうんです。よくもこんな下手な仏像や神像をつくり、建物に青や赤を塗りたくってと思うてしまう。 中略  日本の場合もむろん、はじめに入ってくるのは「青丹よし」のお寺で金ピカの仏像なんですね。ところがそれが剥落していっても、そのままにしておくでしょう。法隆寺だって 薬師寺だって唐招提寺だって、実に清々しくなって、とても絵具ではあらわせないようないい色になっている。剥落の美しさ、これこそが美なんだということを、誰いうとなしに古いころから知っていて、ついには桂離宮のように最初からああいう感じで作るようになる。朝鮮でも中国でもそうですが、お寺の建物の塗りが剥落してくると、必ず亦青丹を塗り替える。」と。日本の美を代表すると言われる桂離宮は、其の基底に剥落の感覚をもつの であり、既に意図されて建造されたということは、如何に我々の心の奥深く住むものであるかを証せられたものと思う。山本さんの感動は、日本の美意識の奥底の波動として表出したものであるということが出来る。

 剥落とは古りである。それは時間に於ける喪失としての変容である。喪われたものは如何なるものであろうか。塗り替えるとは一つの形を維持してゆくことである。時の変容を超えた形の維持である。私はそこに理念の超越を見ることが出来ると思う。そこにあるのは超越者の像であると思う。時に於て変容をもつとは、時に於てあるということである。時に於てあるとは生命的であるということである。内在的であるということである。私は剥落とは、理念としての超越の剥落であると思う。超越者としての絶対の懸絶が、この我と同じ息吹の通いをもつのである。時の内にあるものとして、我々は自己の哀歓の底に見るのである。そこにあるのは親愛の情であり、体温の通いである。剥落に見るのは古りゆくものの悲哀である。超越者に悲哀はない。我々は自己のいのちの投げた影を見るのである。

 生命は超越的なるものが内在的なるものであり、永遠なるものが瞬間的なるものとして無限に動的である。私は断るものとして、文化の発展には二つ方向があると思う。一つは永遠なるものよりであり、一つは瞬間的なるものよりである。一つは理念として超越的方向に展開する知的文化であり、一つは生命として内在的方向に展開する情的文化である。一つは分別的方向であり、一つは共感的方向である。一つは客体的方向であり、一つは主体的方向である。

 仏像は之、永遠なる表象の具現としてあるものである。それは理念としての超越者である。金剛不壊の形相である。併し私達は、時の中に壊れゆくものとして、より深い形を見る。より深い形を見るとは、より深い自己の内部を見るということである。

 我々は永遠を見るが故に死の悲しみをもつ。永遠を見ること愈々深くして、悲しみは愈々深い。悲哀は悲哀の故に表現さるべく美しいのではない。背後に宿す永遠の故に表現さるべく美しいのである。滅びの美しさというのもそこにある。どうしようもない運命を介在させて持続してゆく人間の生命、運命を知ることによって、運命を超える覚悟のしずけさ、そこに滅びの美しさがあるのである。

 時に古るとは一つの滅びである。私は剥落を介在さすことによって、日本人はよい深い永遠を見出したのであると思う。時の推移を宿すことによって、我々に対立する永遠の理念ではなく、情が映す永遠になったと思う。情が永遠を映すとは、一瞬一濃が永遠の影となることである。生命が永遠なるものが瞬間的なものであり、瞬間的なものが永遠なるものである時、理念として知に映された永遠より、情に映された永遠の方が深いと言わなければならない。私は日本の心の底にふかく断るものがあり、剥落の美とはふかく斯る心がはたらいているのであると思う。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」