散歩に出るついでと言って妻に買物を頼まれた。油揚と刻昆布は買ったが後一つが何うしても思い出されない。それでも品物を見たら思い出すだろうと思って店内を一巡したが判らない。帰って出直そうとおもって外に出た。田舎のこととて村中が知人である。歩 いていると「まあ寄らんかい。という声が聞えた。「よう。と言って入ると、奥に向って「おういわしも飲むさかいにコーヒー二杯入れてくれ。といっている。私はそのとき「ああそうだ、頼まれたのは角砂糖だったんだ」と思い出した。私はコーヒーを飲み乍ら記憶について考えた。
記憶は通常頭の中にあると考えられている。併し頭の中にあるのであれば思い出せない筈はない訳である。それでは物の中にあるのであるか、思い起そうとして店内を一巡したということは、或る意味に於て物が記憶を秘めていることであろう。それなれば物は何処に如何にして記憶をもつのであるか、私達は物が記憶をもつと考えることが出来ない。われわれが記憶をもつとは、脳細胞が記憶をもつことである。脳細胞が記憶をもつとは、物を記憶するということである、私はここに頭が記憶をもつのでもなければ、物が記憶をもつものでもない所以があるとおもう。物事は脳細胞ならざるものであり、脳細胞は物事ならざるものである。而して物事なくして脳のはたらきはなく、脳のはたらきなくして物事はあり得ないものである。私は記憶は、物事は脳のはたらきによってあり、脳のはたらきは物事によってあるところに自己を維持してゆくのであるとおもう。
生命の世界は記憶の世界であると書いてあるのを読んだことがある。記憶を過去の持続であるとし、過去のはたらきが現在のわれわれを形作ってゆくのである。生命細胞は同じものを無限に生んでゆくと言われる、一日に数千億の細胞が死滅する身体は、転写に於て賦活すると言われる。そこにあるのは生滅しつつ、同じ運動であり、同じ感覚である。私は生命の時の統一は身体の斯る構造の上に成立するとおもう。斯るものの核をなすものが遺伝子であるとおもう。遺伝子は転写に於て死滅を超えるものとして個体を超えるのである。われわれが脳細胞が記憶をもつとおもうのは、脳は身体の統合機関として、身体の動きはここに集り、ここより出でてゆくが故に外ならないとおもう。内に同一を形成しつつ、外の無限の変化に対応するところに記憶があるとおもう。記憶とは形成としての一瞬一瞬の内外相互転換の蓄積である。身体の同一に於て蓄積されるのである。
私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである。自覚的生命とは内外相互転換として、動的に一なる生命が内と外に分れることである。内を自己とし、外を物として対立し、対立が相互否定的に一を成就してゆくことである。相互否定的に一を成就するとは、自己が物となり、物が自己となることである。物の中に自己を消すことによって新たな物が生れ、自己の中に物を消すことによって新たな自己が生れるのである。物を作ることによって、物に作られるのである。斯る自己と物との無限の交叉が社会であり、その全体像が世界である。
相互否定的に一とは、対抗緊張的に世界が世界を維持してゆくことである。物と我とは世界の対抗緊張による自己形成の内容としてあるのである。私はわれわれの意識はここに成立し、記憶はここに持つことが出来るのであるとおもう。物にあるのでもなければ、我にあるのでもない。記憶は世界が世界を維持するところにあるのである。そこに忘れるということがあると同時に、物事によって思い出すということがあるのである。
我と物がその中に見られるものとして世界が世界を維持するとは、世界は我と物を超えたものである。我と物が世界の内容であるとは、物が我を宿し、我が物を宿すことによって世界を形作ってゆくことである。そこに記憶があるとは、記憶は我と物を超えて、我と物を内容とするものでなければならない。記憶はこの我の生死を超えた深さに於て成立するものでなければならない。生命が内外相互転換的として、発生の初めに既に世界形成の萌芽をもっていたとすれば、私は記憶の淵源は生命の発生に遡らなければならないとおもう。脱糞摂食も生体の記憶であるとおもう。
曽って何かの本で「われわれが狩猟に出て興奮するのは縄文時代を血が記憶するのである」と書いてあるのを読んだことがある。血が記憶するとは如何なることであろうか、私はそこに親の血の騒ぎが子に伝わり、代を累ねて行ったとおもわざるを得ない。われわれも亦先人と共に山野を歩くとき、先人と共に足を速め、先人と共に目が動くのである。連綿として世界が維持するのである。一々の生死を超えて、記憶が記憶を維持するのである。記憶が記憶を維持することが、世界が世界を維持することである。
自覚的生命としてわれわれは記憶を言葉に於てもつ、言葉とは他者との対話に於てあるものである。対話に於てあるとは、自己と他者を超えた世界に於て自己と他者が関るということである。生物的生命に於ては未だ真に自他の区別はない、自己と他者が成立するためには、個の成立がなければならない。我が個性に於て世界を内包し、他者が個性に於て世界を内包するということがなければならない。内包する世界と世界に於て対話があり得るのである。そこに世界はより大なる世界形成をもつのである。
言葉を記憶に於てもつとは、記憶は最早生物的身体を離れることであるとおもう。勿論言語中枢も身体の中にあり、身体を離れるといっても身体でなくなることではない。これ迄の身体によって見ることの出来なかった身体を展くということである。内と外とが相分れ、相互否定的に世界を形成するとは技術的ということである。物を製作し、製作することによって世界を形成してゆくということである。斯るものとして自覚的生命に於ては、過去がはたらくとは生体的形成として現われるのではなく、社会として実現してゆくのであるとおもう。われわれの身体は社会的として学ぶものとなるのである。言葉は物の生産によって発達したと言われる。そのことは言葉の発達によって物の生産は増大したということである。言葉と物が生産を発展させるということが伝統であり、世界は伝統によって自己を維持してゆくのである。而して伝統は学ぶことによって維持してゆくのである。私はここに自覚的生命の記憶があるとおもう。言葉によって記憶をもつとは、われわれの生命形成が生体的なるものから社会的なるものに転じたということであるとおもう。
伝統的、生産的ということは歴史的ということである。社会を時間の相に捉えたのが歴史である。時間の相で捉えるとは、現在が過去を負い、未来を孕んでいるということである。過去と未来をもつということは、過去と未来が対立するものとして相互否定的に転換するということである。歴史的現在とは斯る転換点ということである。歴史とは斯る転換点に於ける過去として未来を否定するとともに、未来に否定されることによって未来に転ずるものである。
例えば私が鋸は確に納屋の棚の上に置いた筈だと記憶を呼び起すのは、樹が茂って車の通行に邪魔になるからである。樹を剪るというのは過去を否定して未来の空間を作るということである。労力を費すということが対抗緊張の否定的転換ということである。斯る否定的転換が歴史的行為ということである。斯る歴史的現在の相互否定が無かったら私達は記憶を呼び起すということが無いであろう。呼び起さない記憶はいつか忘れてしまうものである。呼び起すことによって維持するとは世界がその動転に於て維持することであり、世界が記憶を維持することは、記憶が世界を維持することである。
自覚的生命とは自己が自己を見る生命である。世界が自覚的生命の自己限定であるとき過去と未来の相互否定的転換ということも世界が自己の中に自己を見てゆくことでなければならない。自己の中に自己を見てゆくことは蓄積することであり、蓄積が記憶である。斯る蓄積はその相互否定に於て限り無く累積してゆく、そこは文字が必要欠くべからざる世界である。歴史は一面何処迄も生死の否定的転換である。未来と過去も生死の翳を宿すところより来る、それと同時に歴史は形成作用として何処迄も蓄積的である。文化的に自己を現わしてゆくのである。記憶は蓄積として文化的方向を指向するものであるとおもう。
文字とは如何なるものであるか、私は前に言葉は語部によって先祖の事歴が語り継がれた如く、個々の生死を超えて、個々の生死を包むものであると言った。言葉は対話として個々の生命の超える、併し言葉は何処迄も今此処に於けるこの我の発するものである。現在の自他相互転換の内容となるものである。私は文字は今とかこことかこの我という瞬間性を極小として、超越性・永遠性を更に露わにしたものとおもう。 我と汝に関るよりは、更に多数に人間に関るのである。言葉が多く現在に関るのに対して、過去・現在・未来に関るのである。
印刷術の発明は多くの人の言える如く文化を飛躍的に高めたとおもう。近代の成立は印刷術に負うところ大であるとおもう。そしてそれは人類の記憶の飛躍的な増大である。私達は忘れた文字を、辞書を開くことによって思い出す。辞書はこの私の、そして人類の文字の記憶の貯蔵庫である。全て文字は過去が現在に、現在が未来に語りかけるものである。近代社会はその記憶を文字に於てもつということが出来る。図書館は人類の記憶の集積であり、それは記憶の所在の那辺なるかを示すものであるとおもう。われわれの記憶はこの人類の記憶を分有することによって記憶であるとおもう。勿論記憶は対抗緊張の時に現われるものとして、この我の記憶なくして記憶はあり得ない。唯対抗緊張そのものが世界の自己限定として、この我が世界の自己限定の内容としてあるのである。
私は記憶を更に明らかにするために記憶としての蓄積とは如何なるものによって成立するかを考えなければならないとおもう。私は記憶が過去が現在にはたらくものであるとき過去と現在の同一がなければならないとおもう。同一とは繰り返すということである。過去と現在が全然異なったものであるとき、私達はそこに過去が現在にはたらく余地を見ることが出来ない。過去と現在は連続に於て過去と現在であり、連続をあらしめるものが意識である。併し亦単なる繰り返しにも過去が現在にはたらくということはない。少なくとも蓄積として、記憶としてはたらくということを見ることは出来ない。単なる繰り返しは反射運動として無意識の中に埋没してゆくものである。変ずるものが不変なるものであり不変なるものが変ずるものであることによって、記憶があるのである。
私は斯かるものとして内に生命細胞を、外に天地の運行を見ることが出来るとおもう。生命細胞は形成作用をもつものとして変化してゆくものである。単細胞より多細胞へ、両棲類より哺乳類へと変化してゆく、併しそれは何処迄も自己の中に自己を見てゆくものとして変化してゆくのである。無限に内包的なるものの分岐とし変化してゆくのである。形成作用として無限の形を生みつつ、形を生むものとして、形を超えて形を包むものとして、無の統一として不変なるものである。私は斯る不変なるものが自己の中に自己を変ぜしめるものとして、内外相互転換の外に天地の運行があるとおもう。天地の運行は繰り返しである。一日が、一年が繰り返されるのである。一日とは明暗としての昼夜であり、一年とは四季である。その繰り返しが食物連鎖の基盤として植物の消長を決定するのである。生命は内外相互転換的として食物を外とし、食物としての外を、内としての生命細胞に転換せしめるものである。そこにわれわれは運命を植物の消長に托さなければならない所以があるとおもう。
斯かるものとして人間の生産の初まりは食物としての植物の栽培であった。そして栽培の必要として暦が作られた。暦は天地の運行が植物の消長に関るものである。それは記録に於て過去の記憶を現在にはたらかすものである。天地の運行を不変として、有機質の生命を変ずるものとして、過去が現在を限定してくるのである。運行の反覆が内外相互転換の反覆であり、反覆によって外としての物の形が整って来、内としての行為する身体の動作が定まってくるのである。そこに時の統一があり、記憶が生れるのであるとおもう。
変ずるものが不変なるとは、変ずるものは不変なるものが自己の中に自己を見てゆくことでなければならない。私は斯く自己の中に自己を見てゆくことが行為の反覆であるとおもう。そして斯る行為の反覆は天地の運行より来るのであり、天地の運行より来るとは、古人の言える如くわれわれは天地の間にあるのであり、天地の形相を実現するところに生命形成をもつのであるとおもう。生命の形は風土的である。そこに天地の形があるのである。記憶は深く宇宙の人間による自己形成の内容であるとおもう。
長谷川利春「自己の中に自己を見るもの」