共感の世界

 先日ちょっと所用があって、内藤幸雄先生が指導しておられる読書グループに列席させて頂いた。それから四・五日経てからお出会いした時にそのグループのことをお話しされ、「あれで仲々熱心でして、あの中に遠くへ移転された方もおられるのですが、其の日になると電車に乗って出席されるのです」とのことであった。あの時お目にかかった記憶によれば、まだ余暇をもてあますという程のお歳でもないように思われた。 おそらく寸暇を割いての御出席であろう。この足を運ばさしめたものは如何なるもの であったのだろうか。

 我々は人間の生命は自覚的であり、行為は全て自覚的なるものに根源を有すると思うものである。自覚とは自己が自己を見、自己が自己を知ることである。自覚的生命 に於いては、自己をより明らかにし、一歩一歩自己を実現してゆくのが喜びである。衝動的要求というのは自己自身を見ようとする努力である。遠距離もいとわず斯く足を運ばしめたものは斯る内的生命の要求でなければならないと思う。

 古来より「出師表」を読んで泣かざるものはないといわれる。ウェルテルを読んではおのずから胸迫り、ヘルマンとドロテアを読んでは思わずほほえみが湧き来る。それは嬉しかったであろうとか、悲しかったであろうということではない。ウェルテルの涙は直に我の涙である。ヘルマンのほほえみは直に我のほほえみである。私達はアレキサンダー大王を見る事も出来なければ、静御前に会うべきもない。しかし其の壮志は我々を動かして止まない。

 私は我々の根底には斯くの如き全人類直に一なるものがあると思う。理解の根底に共感の世界があると思う。知識の根底に深大なる感情の世界があると思う。読んでお られた本は源氏物語であった。それは解説書によらずしては言葉すら解らない古代の小説である。而し其の喜び悲しみはすでに埋葬されたものではなくして読む者に呼びかけ、読む者をより深化せしめ、より豊潤ならしめるものであると思う。読む者はそれを自己の過去として、自己の深部を見出すが故に読むのであると思う。無限の過去が自己の過去である。そこに生命の自覚があるのである。聖オーグスチヌスの偉大なる過去は斯る過去でなければならない。

 私達の生命は有限である。せいぜい生きて百才位である。斯る有限なる生命が如何 にして千年前を知り、其の人等と対話し得るのであろうか。それはこの生死する有限 なる生命からは考える事が出来ないものである。生命は自己実現的である。有限なる生命の実現し得るものは、有限なるものでなければならない。私達の身体は尚深き底をもつのでなければならない。昔語部によって歴史が伝承されたと言われる如く、私達は言葉によって過去と未来を持つ。而して私達は言葉によって自己を明らかにする。私は人間が自覚的生命であるとは言葉をもつ生命であることであると思う。

 言葉を作った人はいないといわれる。言葉は限り無い多くの人の関わり合いの中より生まれたものである。而して無限の過去より伝承し、無限の未来へ伝達するものである。それによって全ての人が関わり合い、全ての人が自己を見るものとして、それは全人類の内容である。全人類は言葉によって其の一体性を実現するのである。全て を内に含み、全てを其処より実現するものとして言葉は永遠の形相である。

 生死するものも私達の身体である。而し斯る永遠なるものをもつのも私達の身体である。私達は身体の脳髄の中に言語中枢をもつ。身体は有限なるものと無限なるもの、 生死するものと永遠なるものの統一として身体である。この相反するものが一つなる 身体として生死するものに永遠なるものを実現せんとするのが努力である。永遠の実 現が自覚である。そこに自己を見る喜びがある。価値とは有限なるものに映された永 遠なるものである。

 私は断る言葉の永遠性は感情の自己形象化によると思う。共感が言葉の世界性を基礎づけると思う。身体が言葉をもつということは言葉は情動的なるものの上に成り立つことである。共感の自覚が永遠である。

 芸術は永遠であると言われる。而し如何なる作品も永久に存在することは出来ない。 私は芸術の永遠性とは作品にあるのではなくして、斯る永遠なるものの自己表現にあると思う。芸術の内容は共感であると言われる。千年を隔てたものが直接なるものとして、内的なるものの表白として永遠であると思う。

 永遠なるもの働くことによって自覚があるとは、自覚的生命は永遠なるものを求めて止まないことである。底深き女神の手の招きに誘われて彼女は第二木曜日に寸暇を割いて電車に乗ることであろう。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」