作歌の根底にあるもの

 歌を作るとは対象を、五七五七七の定型文字に捉えることである。定型によって見るということである。併し対象は三十一文字の定型としてあるのではない。若し対象が定型としてあるのであれば、自由詩や散文はあり得ないことになるし、同じく見られたものとしての絵画的表現は不可能である。

 私達短歌を作るものは、歌を作ることによって対象を明らかにし、対象に深く入ってゆ くと感じ考えている。作ることによって対象を明らかにしてゆくとは、対象は言葉に構成せられることによってあるという意味がなければならない。言葉の構成が対象の自己構成の意味がなければならない。対象が明らかになるとは、対象はそれ自身の自己明化をもち、展開をもつのである。斯る自己明化が言葉に拠るところに、我々の作歌があり、対象を明らかにする所以があるとおもう。

 私達は歌を作るとき多く目をもって見、見たものを言葉にする。断る目をもって見ると いうことは如何なることであろうか。犬や猫は同じく目をもって見る。併し歌を作ること は出来ない。犬や猫の見るものは多く餌と敵に関るものである。原始人は歌を作る。併し文明人の如く複雑な心の動きを宿すことが出来ない。目は深く主体の生命形成の表出としてあるのである。目の構造は同じである。併しそのはたらきは犬は犬の、烏は鳥の生命 成によるのである。

 他の動物になくて、人間だけにあるもの、それは言語中枢であると言われる。私達は言葉をもつことによって、壮大なる人類の文化の殿堂を打ち樹てることが出来たのである。多くの古文書に過去を見る如く、言葉は個々の生死を超えて、個々を包むものである。個々を包むとは、人類の初めと終りを結ぶものである。初めと終りを結ぶとは、無数の個々の営為がその中に蓄積されているということである。私は言葉によって人間が人間となったということは、言葉がはたらくことによって、我々は我々の目をもったということが出来るとおもう。言葉が見るということが出来るとおもう。

 言葉を作った人はないと言われるごとく、私達は言葉が何時初まったかを知らない。私というとき既に私は言葉の中にあるのである。淵源を求めるとき、それは生命の初まりと共にあったと思わざるを得ない。生命が機能的構造的であり、形成的であるとき既に言葉がはたらいていると考えざるを得ない。聖書に言える如く、太初に言葉があったのである。人間のみが言語中枢をもつとは、別の生命が現われたのではない。斯る生命が自覚的表現的となったのである。はたらいていたものが、働き自身を具現するものとなったのである。働きを具現することが製作することであり、製作は言葉が働くことによってあるのである。聖書は更に、「この言葉は太初に神とともにあり、萬の物これによりて成り、成りたるもの一つとして之によらで成りたるはなし。」と言う。言葉とは無限に動的なる生命の初めと終りを結ぶものである。全て生命は初めが終りを あり、人間はそれが自覚的である。

 我々が今もつ言葉とは、人類初まって以来無数の人々が、怒り悲しみ喜びつつ対話したものの綜合である。物は名をもつと言われる。名とは人間が製作物につけた符号である。言葉によって見出したもの、変革したものである。言葉が作り、作ったものに言葉が作られる。客体的方向に物があり、主体的方向に喜び悲しみがある。形成的世界の現在として我々は今の言葉をもつのである。言葉が見るというのは、斯る形成的生命の目として見るということである。

 私達はバラの花を美しいと見る。併し手にとっては唯食えるか食えないかを分るのみであろう。自覚的とは自己構成的ということである。バラの花の中にバラの花を見るのである。髪に挿し、胸に飾り、限りない人々の嘆賞に培われて美しいのである。詩人が唄い、画家が描いたものをとおして、美しいのである。此の間生花展を見に行った。私は踏み捨てていた野草の美しさに目を瞠らされた。その美しさは生花という構成によって見出され生命の美しさである。単に我々が見る目に無限に重ねられた野の草のいのちの形である。先人の表現したものが我の目となってはたらく、生花展に見たものが我の目となって野の草を見る。そこに自覚的生命としての人間の目があるのである。生花を習うとは斯る視覚の無限の創造的世界に入ることである。

 この表現されたものが自己の目となってはたらくときに言葉が生れるのである。新しい目となって、新しいものが見られるときに言葉が生れ、次の者にその目を伝えるときに言葉が生れるのである。それは単に目のみではなくして、全ての製作にはたらくものである。製作は無数の人々の交叉より生れる。交叉とは無数の人々が一なることである。無数の異なる人々を一ならしむるものが言葉であり、言葉をあらしめるものが物を作るということである。それは言葉が物を作り、物が言葉を作ってゆくことによって、人と人が限りない交叉をもつ世界である。斯るものとして私達がものを見るのは働く言葉が見るのである。はたらく言葉の目として見るのである。

 短歌を作るとは見たもの触れたものを言葉によって構成するということである。言葉に よって構成するとは、言葉によって見ることである。そのことは既に対象が言葉をもったものでなければならない。言葉によって構成される対象は名をもったものである。名をもったものとは、作られたものとして言葉によって見られたものである。言葉によって見られたものとして、対象は言葉をもつものである。対象が言葉をもつものであるとは、我々に呼びかけるものであることである。我々が春の野の光りを歌に作る時、春の野の光りが我々に呼びかける反面があるのでなければならない。我々は呼び応えるものとして表現をもつのである。

 言語中枢は人のみが言われる如く、言葉は人のみがもつものである。対象が言葉をもつとは、対象は無数の人々の呼び交しを担うものとしてあるということでなければならない。古今東西の人々が、それによって呼び交しを持つものでなければならない。私達は桜の花を見るとき、幾多詩人の喜び哀しみを見、幾多画人の色と形を見るのである。画人の目、詩人の情が我々に憑依するのである。我々の歌はそこから生れる。対象が呼ぶとは斯る無限の人々の声を宿すことによってである。私達は斯る呼び声によって、無限の形を見、無限の色彩を見るのである。対象の中に対象を見る。そこに我々の自己の底に触れた美意識が生れるのである。

 短歌作品の批評が行われるとき、よく観念的であるとか、物につき過ぎていると言われる。観念的とは言葉が物を作るはたらきを失なっているということであり、物につくとは物が言葉を生む力をもっていないということである。それは何方も真に生命を表現していないということである。生命は無限に動的である。動きを失なうことは死である。何方も真でないとは生命の自己限定力が失われているということである。言葉が物を作り、物が言葉を生むところは、言葉と物が其処に消えて新たな言葉と物がそこより生れるところである。この我が見るのではない。新たな物が見られるところは、新たなこの我の生れるところである。新たな言葉が見る目の自己となるのである。勿論新たなものが生れると言っても突然空中に楼閣が現われるのではない。新たな状況を介して、過去の無数の人々の呼び声にこの我が応答するのである。あるものは生命の自覚的営為であり、言葉と物はその両極に現われた形である。

 生命は形成作用であり、形に自己を見てゆくものである。その両極に言葉と物があるということは、形成作用とは言葉と物がはたらくということでなければならない。両極とは相反するものである。相反するものがはたらくとは相互媒介的ということでなければならない。私は斯るものとして作歌するものは、物か言葉か、何れか一つの形の立脚をもたなければならないとおもう。無数の先人の努力は言葉亦は物として結晶しているのである。この形がはたらくことが新たな製作である。我々が作るとはその形がはたらくことである。それは相互媒介的として一つのものである。而して相互媒介的にはたらくとは両者がせめぎ合うことである。私は短歌表現に於て物が言葉を介する方向に写生があり、言葉が物を介する方向に象徴があるとおもう。リアリズムとロマンチズムである。それは相互媒介的として、何方も世界を表現する。而しそれは一方は写生が象徴を哺むものとし、一方は象徴が写生を包むものとして何処迄も相対立するのである。何方も世界の自己表現としてありつつ、相否定し合うものである。斯る否定に於て表現は愈々多様となり、言葉は愈々豊潤となって、世界は自己自身を創造するのである。

 争うとは優劣を決することである。ロマンチズムとリアリズムは、何方かの優勢として 時は流れる。而して一方の優勢は相互媒介の喪失である。相互媒介の喪失は、自覚的生命の自己喪失であり、創造の衰退である。其処に自覚的生命は劣者の反逆を起す。ここに世界は革(あらた)まり、劣勢なるものは優勢となるのである。言葉が物を含み、物が言葉を含む具体的生命は、自己の中に無限に否定し合うものをもつことによって自己を実現してゆくのである。而してそこに実現するのは常に無限に動的な自覚的生命としての人間の形相である。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」