人間回復としての文化

 文化とは生命がその形成作用に於て内面的必然をもったということである。私はその例を一番卑近なる食文化の中の漬物にとりたいとおもう。漬物は野菜の塩による保存食である。私はそれが塩と野菜の間は文化とは言われないとおもう。それが文化となるためには糠とか糀とかが加わらなければならないとおもう。糠とか糀とかが加わったということは 新しい形が生れ、新しい味が生れたということである。そしてその形が次の形を生むということが文化の創造ということであるとおもう。次の形を生むとは形の関り合いの中から新しい形が生れることである。或る家の漬物に昆布が加えてあったとする。或る家の漬物には柿の皮が加えてあったとする。その二つを関り合せることによって、新しい味の新しい漬物を作り出すことが、形の中より次の形が生れるということである。食物は一々が異なった味をもつ、それを組合せることによって無限の形が生れてくるのである。無限の形が漬物の世界であり、形の中から形を作ってゆくのが漬物の創造である。そして生れた形と、更に形が形を生んでゆくのが食文化の中の漬物の文化である。そしてこの文化を生んでゆくものは舌のよろこびである。

 何故に塩と野菜の食物としての結合は文化ではないのか、私はそこに生命形成があるとおもう。生命は内外相互転換的に形成的である。外とは我ならざるものである、我ならざるものとしてその獲得は偶然である。虎は一夜に千里を走ると言う、それはそれだけ走らなければ獲物に出会わないということであろう。人間はそれを経験の蓄積に於て必然に転ずるのである。蓄積するとは再現することである。例えば稲を山野に発見して持ち帰り、その時に忘れたか落とした統が芽生えたとする、それを播種することによって芽生えをもつのである。それは必然の原点である、併しそれだけに終るならば私は稲作文化とは言い得ないとおもう。生育の為に溝渠を作り、保水の為に曲を作り、収穫保存の為に容器を作ってゆくところに稲作文化があるとおもう。多くの経験を一つの行為的体系としてまとめるのである。偶然が形の内面的要求に於て必然となるのである。

 私は私達が偶然としてもつ対象は本来生命として主体となるものであったとおもう。 生命が内外相互転換的であるとは、転換的に一なることである。米は我ではない、我は米ではない、併し有機質として一つである。鉄分や燐分が無機質であるとしてもわれわれの身体の組成物質として一なるものである。われわれの身体が断る組成であるとは、われわれの形とは宇宙の見出でた宇宙の形であるということである。私は私達の内外相互転換とは、宇宙が見出してゆく宇宙の形としてあるとおもう。斯る宇宙を形成する一々の要素が宇宙を形成するものとして、宇宙の中心の意味を有し、一々が宇宙を映すところに一々は否定し合うものとして絶対の他となるのである。斯る一々の他者が形成するものとして一なるところに内外相互転換はあるのである。一々の他は多として、一即多、多即一なるところに形はあるのである。一即多、多即一とは形成的ということである。

 形成が一即多、多即一として、一々が世界を映すことが露わとなったのが生命である。多としての一々が世界を宿すのである。そこに身体が成立するのである。身体は無数の他者との関りを自己の中に蓄積し、統一するものである。無数の一々の関り合いが宇宙の姿である。その関りを多としての個が内容としてもつのが身体である。それは一瞬一瞬の関り合いの統一である。斯る統一が時間であり、身体は時間をもつものとして身体である。原子と原子の関り合いが宇宙の姿として、それを蓄積し統一することが宇宙を写すことであり、宇宙を写すとは宇宙がそれによって自己自身を見てゆくことである。

 身体が斯く宇宙の自己形成として、宇宙を写すことが身体の形成であるとは、身体は欲求的であるということである。身体は無限に他者に関ることによって宇宙を写し、自己が小宇宙たらんとするのである。他者と関ることが自己形成であるために、他者と関ることによって自己を作る機能が生れなければならない、生れた機能は更に他者を欲するのである。食本能と食物環境は斯る形成として見られるのであるとおもう。そして生物は如何なるものも宇宙を写すのである。

 宇宙を写すものとして生命が自己形成的であるとは自己維持的であり、自己保存的であ る。自己保存に於て一瞬一瞬の内外相互転換を蓄積し統一して自己であり続けることが出来るのである。自己保存とは宇宙の形成的意志である。而して多としての万物の一々が世界を写すことによって個があるということは、他としての個と個の関り合いはその一々が内包する世界と世界が衝突することである。食物的世界は奪い合う世界であり、本能の世界は闘争の世界である。個的身体は宇宙が一即多として自己を見、自己を実現した小宇宙としての世界である。併しそれが相互否定として闘争の世界であるとき未だ真に一即多、多即一の世界が現われたということは出来ない。世界形成的に一即多、多即一とは、一が多を成じ、多が一を成じる世界でなければならない。対立するものは相互に生かし合う世界でなければならない。多の対立は根底に一をもち、その一にかえることによって真個の自己を見るのである、それが相互に生かし合うことであり、多即一ということである。

 私は斯かるものを生命の自覚に求めたいとおもう、自覚とは自己を知るものとしてはたらくということである。自己を知るものとしてはたらくとは写されたものがはたらくものとなることである。身体はもともと宇宙を写し写されたものがはたらくものとして形成されたものであった。そして写されたものがはたらくとは内外相互転換的であった。内外相互転換的とは食物を摂ることによって身体に化すということである。併しそれは生来的として与えられたものである。身体に化すとは外が内となることである。自覚するとは斯く外を単に食物として対するのではなく、広く食物がそれに、よってある食物的環境に拡大するものである。それが写されたものがはたらくものとなることであり経験の蓄積である。それは無限に内と外とが写し合うものである。外的表象として環境に物が生まれ、内的表象として身体に記憶とか想像が生れるのである。そして記憶や想像は物を写し、物は記憶や想像を写すのである。斯る発展の内的表象の方に必然が生れ、外として物の偶然と対すのである。生命の形成的展開の肯定面に必然が生れ、否定面に偶然が生れるのである。故に必然の発展によって偶然がなくなるのではない、一つの偶然を必然の内容とすることはより多くの偶然を生むことである。私は偶然を必然の母胎と見たいとおもう。必然との交叉の底には必然によって達することの出来ないものがあるようにおもう。それは暗黒が同時明光なるものである。星は目に見えない暗黒の微粒子が集まり、集団となったエネルギーによって灼熱し光り輝く存在になったと言われる。私は偶然と必然に斯るものにも似た関係があるようにおもう。

 私は文化とは斯る必然としての内面的発展の形象であるとおもう。内面的発展は外と内とが映し合う無限の発展である。形が形を生んでゆくのである。外に物が形をもち、内によろこびが形をもつのである。記憶や想像は外に物を見出した内のよろこびの形である。そしてかなしみは外に物の消えた内の形である。私は前に漬物のさまざまの形を生んでゆくのは舌のよろこびであると言った。私は漬物のみではなくして全て人類が見出でた食物の形は舌が見出でたよろこびの形であるとおもう。そしてその形は記憶と想像が生み出したのである。よろこびかなしみは単一なる一つの感情ではなくして、外に形を見ることによって無限に深まりゆくものである。生命は無限の形成作用であり、それは内と外に無限の形を見てゆくものである。而して斯く二方向に形を見るということは形成的に一でありつつ異なった方向をもつということでなければならない。私はそれを一つは環境の方向に見、一つは身体の方向に見たいとおもう。一つを物の方向に、一つをよろこびかなしみと しての生命の方向に見たいとおもう。そしてよく言われる文明と文化もそこに分ちたいとおもう。勿論それは前に言った如く根幹に於いて一である。

 全ての生命は身体形成的であり、生命発生以来三十八億年の内外相互転換に於て作り出した形である。その内言語中枢をもつのは人間だけであると言われる。人間だけがもつということは、生命が内外相互的に宇宙を表わす最大最深のものとしての出現をもったということであるとおもう。それは三十八億年の生命形成を一望に見、形成的に操作する力をもったということである。私は生命はその三十八億年の内外相互転換に於て無限の層をなし、その層に於ておのずから表現に深さ、高さを異にするとおもう。後から出現するものは前の矛盾を克服したものとしてより大なるものである。

 形成としての感覚には二つの質の異なったものがあると言われる。一つはくり返すことによって鈍磨してゆくものであり、一つはくり返すことによって鋭敏となってゆくものである。前者の方向に嗅覚・味覚があり、後者の方に聴覚・視覚があると言われる。味覚は身体に対象が直接するものであり、嗅覚は近縁するものである。それに対して聴覚・視覚は遠くの対象に関るものである。事実私達はいくら美味しいてんぷらでも五日も続けて食わされると見たくもなくなる。好いにおい、悪いにおいでも時間が経つにつれて感覚が 鈍ってくる。それに対して聴覚・視覚は何の音・何の姿であるかを判別しようとする。それを持続することは微細精緻なるものに分け入ってゆくことである。

 生命の原初の状態に於て、内外相互転換としての外は身体と接触するものにあったとおもう、触覚が全ての感官であったとおもう。それが生命の発展により他の生命を捕捉して食用とするようになって行動が必要になり、さまざまの機能が生れたのであるとおもう。行動の拡大が空間の獲得であり、それに至る無限の内外相互転換が時間の創出である。より大なる時間・空間は生命の発展の様相であるとおもう。私は目や耳が何時如何にして出来たか知らない。併しそれは生命の形成的発展に於て機能し続けた感官であるとおもう。それに対して舌や鼻は生命形成の時間・空間の発展より取り残された感官であるとおもう。そこに質の異なる感覚系統が出来たのであるとおもう。

 芸術として表現される感覚はこのくり返すことによって鋭敏となってゆく内容であると言われる。見ることによって鋭敏になるとは形の中に形を見ることである。画家は私達の見ることの出来ない美しい色を見ていると言われる。色の中に色を見るのである。赤の中に赤を見るのである。色彩が色彩を分ってゆくのである。そこにわれわれの見ることの出来ない美しい色彩が生れるのである。そこに色彩の群が生れ、色彩が色彩を生む体系が生れるのである。目が色彩の中に色彩を見たとき、このわれの生命が生命の相を見たものとして、生命の中より溢れ出た生として表現衝動をもつのである。それが絵画である。音であるとき音楽である。

 目は最も広く対象に接するものとしてものの形は最も多く目が決定する。而してものの形は前にも言った如く無限の内外相互転換によってなるものである。無限の内面的発展を潜めるものである。生命はものの形を目をとうして決定するのである。併し目は対象を変革することは出来ない。目が形の中に形を見るとは手を加えた目となることである。そこに物の製作があり、生命の自覚的発展があるのである。形は斯る製作に於て自己の中に自己を見るのである。目は斯る製作的生命として形の中に形を見るのである。手を加えた目となるとは全身的となることである。それに於て対象を変革するとは自己を変革することである。物を作るとは自己を作ることである。そこに目は内面的発展を見る目となるのである。目は自己自身を見る目となるのである。私はそこに味覚・嗅覚のもつ表現内容と、視覚・聴覚のもつ表現内容が異なるとおもう。味覚は舌のよろこびであり、嗅覚は鼻のあらわれである。視覚は目のよろこびであり、聴覚は耳のよろこびである。共にその形の展開として文化である。併し視聴覚は自己の根底に還ってゆくのである。形の中に形を見るもの自身を見るものとして永遠の形相をもってくるのである。味覚・嗅覚が時間・空間の中に現われて消えてゆくのに対して時間・空間を包むものとなるのである。否味・嗅覚も形が形を生むものとして永遠を宿すものであった。併しそれは永遠を表わすものではなかった。それに対してくり返すことによって鋭敏になるものとは、永遠が自己の形を表わすということである。そこに絵画・音楽がより大なる文化とされる所以があるとおもう。絵画は内面を表わす形となり、音楽は創造の律動を表わすものとなるのである。そこに文化は真の具体をもつのであるとおもう。

 色彩が色彩を見ると言っても最初から色彩の中に色彩を見るものとして形が表われるのではない、製作的生命として形が表現されるのは物を写すということである。物を写すことによってわれわれは内なる力を見るのである。人間が最初に描いたものは狩猟の豊饒を祈っての鹿や猪等の姿でと言われる。それは必ずしも美しい色彩、微妙なる線を見ようとするがためではなかったであろう。併し一つの形は更に確かな形を要求する。最初は単純な色彩であり、単純な線であったであろう、それが更に鹿らしく、猪らしい色彩と線を要求するのである。それは描くことによって獲得した目によって次のイメージを創出することである。それは新しい色彩であり、新しい線である。そこに作者は新しい形と共に新しい自己を見るのである。そこに視覚は内面的発展をもつのである、目は深くものを見る目となるのである。それは更に的確に対象を把握することである。自己は新しい色彩、新しい線を見ることによって力をもつのである。斯くして目のよろこびは新しい色彩、新しい線へと向うのである。食文化が舌のよろこびに止まるのに対して、目のよろこびは全自我のよろこびとなるのである。描かれたものを視覚の世界として、描く力を世界の創造力とするのである。視覚は描くことによって無限の対象を自己に映し、自己を対象に映し、世界の自己形成を出現せしめるものとなるのである。

 併し絵画は尚真に自己を把握せしめるものではない、絵画に於ても自己はその表現力にあった、自我の把握はその表現力をあらしめたものを見るのでなければならない。私は斯るものを言葉に見ることが出来るとおもう、言葉は我と汝が意志の交換をするものである。意志の交換は何のためにあるのか、それは意志が世界を志向し、世界実現的に交換するのであると言わなければならない。世界の自己実現の手段として言葉はあると言わなければならない。我と汝は世界の自己実現として言葉をもち、言葉を交すのである。我と汝があって言葉があるのではない、言葉があって我と汝があるのである。太初にことばありき、ことばは神と共にありきである。言葉は世界の自己実現としてあり、われわれは世界の実現の中に我を見るのである。唯名論者は名をもつことにあるという。名の無いところは唯混沌の世界であるという。われわれは言葉によって自己を知るのである。そして知ることがあるということである。

 言葉は道具の使用と共に初まり、物の製作と共に発展してきたと言われる、内外相互転換の発展が新たな意志表示を求めたのである。道具の使用はこの我を主体として、対象を変革することである。一瞬一瞬の内外相互転換を生命の営みとして、一瞬一瞬を統一するものとなることである。経験の蓄積として道具の出現はあるのである。言葉がそれと初まるということは、蓄積は言葉に於て蓄積されるということである。叫びやその他の記号で動作していたものが言葉によって動作するものとなるということである。

 言葉が蓄積をもち、我と汝が対するところに言葉があるとは、蓄積は我と汝をつなぐものがもち、そこより我と汝が見られることによって我と汝があるということである。私はそこに社会があるとおもう。舌も目も耳もこの我がもつのである。この我がそれによってあるものは最も具体的なものである。最も具体的なものとは形がそこから現われる根源的なものである。私はそれを言葉が形の中に形を生む社会に見たいとおもう。言葉は我と汝がその中に見られ、我と汝がその中より作り出すものとて文化が担う究極のものであるとおもう。言葉は他の文化がそれによってあるとでも言うべき深大なるものをあらはすものであるとおもう。

 言葉が形の中に形を見出す社会とは歴史的形成的ということである、歴史は時間の形相として形の中に形を見たものである。私は文化とは歴史的形成の内容であるとおもう。而して形成は内外相互転換として、形成は外的方向と内的方向をもつのである。一つは内を映した外の方向であり、一つは外を映した内の方向である。生命を物に映す方向であり、物を生命に映す方向である。私は前者の方向に制度・法律等が成立し、後者の方向に詩・民話・小説等が成立するとおもう。前者が人間疎外の方向であり、後者が人間回復の方向である。勿論それは相即するものである。疎外があって回復があり、回復があって疎外があるのである。それは一つの形成運動である。而してそれは単に一つではない、疎外は疎外の方向に内面的発展をもち、回復は回復の方向に内面的発展をもつのである。法律は愈々法体系を整備し、詩や小説は愈々心の動きを深化してゆくのである。相即的に一であるとは法律は人間の幸福を内容とし、文芸は背反・矛盾の疎外を内容とするということである。法律は勧善懲悪に立脚し、文芸は悲劇に於てより深く表わされると言われる如く、対立・否定をより深く抉ってゆくのである。それでは何故に人間を内容とするのが疎外であるか、私はそこに法という一般観念に個性が収斂されるところにあるとおもう。没個性的なところにあるとおもう。それに対して文芸が見る矛盾は流す血潮であり、そそぐ涙である。生命に直接するものであり、身体に於てあるものである。

 このごろよく言われる文化都市の建設というのは、文化の形成運動を後者の方向より捉えんとするものであるとおもう。明治維新以来の積極的な近代化社会の建設はその機械化に於て無限の未来を拓くものであった。生産の増大によって全ての苦痛に終止符を打つものであった。併し生産の増大は欲望を充足さすものではなかった。生産の増大は亦欲望を肥大させるものであった。人々は斯くして無限に生産の増大を求めたのである。量産の結果人はコンベアベルトの前に並べられ、流れてくる物に自分の工程の責を果すべく思考と感情の余裕を失ったのである。出来上った品はその計算された劃一性に於て人々に、一の形の家に住み、相似たる服を着ることを強制するのである。人は暖衣飽食の一面に、自己の中に世界を見る心の要請を喪失したのである。ここに人々が求めたのは昔にかえることであった。短歌・俳句・茶の湯・生花・書道・陶芸・詩吟・歌謡・舞踊等々、今や文化活動の名に於て日本中それ等のことに励まぬ所はないと言っても過言ではないであろう。私はこれら文化といわれるものはその一々が完結をもつとおもう。完結をもつとは作者が全体像をもっているということである。例えば短歌に於て一字一句に苦しむことはその全体のもつ意味を実現せんがためである。書道に於ても今引きつつある線は既に書いた線と、これから書く線と如何なる形に於て関るかのイメージの創出に於て引くのであろう。そしてそのイメージの浮んで来ない線はその書を捨てる他ないであろう。形は無限の過去より生れ、無限の未来を生んでゆくものである。表現に於て無限とは、形がそこに消えてゆき、形がそこより生れるものとして形の創造面であり、永遠の意味を有するものである。 私達はその永遠に自己を映すことによって真個の自己を見るのである。そこによろこびがあるのである。勿論形の中に形を見るということは既成の形を変革して新たな形を見ることであり、公民館活動の如き先蹤の跡を習うのがやっとというものによって見得るものではない。それに上記の日本文化は高い形の完成をもつものであり、混沌の熔炉の中に投げ込んで新しい形を見出し得るものではないようである。併し斯く多くの人々がそれに向うということは巨大な力である。この巨大なるエネルギーが天才によって突然凝結することもないではないとひそかにおもうものである。勿論われわれの創作も過去に招かれて、未来に語りかけるものである。唯形の変革の自覚が呼びさまされる程強烈ではないということである。そしてそれは全ての人にそれを望み得ないということである。

 人間性の喪失と回復ということは文化内容によって見ることの出来ないものである。否文化内容に於ても言葉によってのみ見られるものである。言葉の形は前にも言った如く感覚の形を超えたものである。我と汝が其の中に見られる形である。我と汝がそこに成立する形である。世界が世界を見てゆくのである。感覚も亦世界限定の我の内容として世界を映すものとなるのである。そこに言葉による表現の根源性があるのである。言葉によって人間性の喪失と回復が見られ、さまざまの文化の形が呼び起されたということは、さまざまの形は言葉に根源をもつということである。

 私は文化の形は全て身体より生れるとおもう。内外相互転換は身体が形作ることである。言葉も亦言語中枢として身体がもつのである。言葉が他の感覚と異るところは言葉は自己の全存在を表現するということである。言葉が身体を深め、身体が言葉を深めるとき、それは単に身体を深めるのではなくして、世界を内にもつ我としての身体を深めるのである。併し短歌や俳句は直に身体を作るものではない、身体を作るには動作がなければならない。私は断るものとして日本の心を最も深く表現するといわれる能楽を例にとりたいとおもう。能は猿楽から発展したと言われる。猿楽は農作物を猿に荒されるのを防ぐために、祭りなどで猿を追い払う真似をした呪術に初まると言われる。併し私は唯真似をするだけでは能楽への発展の可能性をもたないとおもう。それが文化となるためには身振り手振りが人間のよろこびかなしみの翳としてさまざまの形が生れて来なければならないとおもう。感情の翳を宿すとは動作を誇張することである。誇張するとは感情による動作をもつことである。感情を映す動作となることによって感情は自己を明らめ、自己を作ってゆくのである。感情と動作が映し合うところよりさまざまの形が生まれるのである。それは恋のよろこび、死のかなしみの表現へとつながってゆくのである。恋や死につながってゆくとき、動作を主導するものは言葉となる。動作は言葉を表わす動作となるのである。能楽は幽玄の世界を表現すると言われている。私は斯る幽玄の世界は日本人が形の中に形を見ることによって見出した世界であるとおもう。言葉と動作を繰り返す中から現われて来たのであるとおもう。洗練によって身体の深奥が表れたのであるとおもう。幽玄の世界というのが別にあるのではない、表わすことによってあるのである。それは日本の生命形成の深奥として、私達はそこに自己の深奥を覗くのであるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」