人格とは他の動植物に対する人間の生命の位置付けである。私は斯る位置付けを人間生命の自覚性に求めたいとおもう、自覚とは自己の中に自己を見ることである。自己の中に自己を見るとは、自己の中に世界をもつことである、生命は内外相互転換的に自己形成的である、外を内とし、内を外とすることによって自己を実現してゆくのである。外を食物として、食物を身体に化してゆくのが生を営むということである、それが自覚的となるとは内によって外を作るということである 食物を摂取することに作られた身体によって外を作ることである。もともと内外相互転換とは内が外を映し、外が内を映すことであった、人間生命はそれが自覚的となったのである。内外相互転換としての生命が自己の中に自己を見たのである。無自覚としての生命に於ては相互転換が直接的であり、同一的であった。それが自覚的生命に於て否定的に対立するものとなったのである。外が物として、内が身体として否定を媒介して形成するものとなるのである。否定を媒介として形成するものとなるとは映し合うものとなることである。物は身体を映し、身体は物を映すものとなることである、食物は身体ならざるものであり、摂取に於て身体に化するものである。それをより容易に獲得し、より勝れた機能の身体に化せしめるのが物が身体を映すということである、環境適応的であった身体を、環境を身体に適応せしめるのである、外は身体に与えられたものではなくして身体が自己の延長として作るものとなるのである。内外相互転換が身体に直接なるものは未だ物ではない、製作に於て外は物となるのである。
内外相互転換として、外を食物とする生命は欲求的である、欲求的であるとは内と外と が対立することである、我ならざるものを我となさんことが欲求である、そこに内外相互転換があるのである、そこにわれわれは身体を形作ってゆくのである。欲求やそれの充足としての行動は身体の形成のはたらきとしてあるのである、内外相互転換的に形成するとは、形成された身体は内外の統一としてあるということである。内外の統一としてあるということは、身体の形成は内にあるのでもなければ外にあるのでもない、内外相互転換的に自己を見てゆくものの自己形成としてあるということである。自覚とは自己の中に自己を見るものとして、この統一としての内外一なるものが露わとなってゆくことである。そこに製作があるのである、製作は一瞬一瞬の内外相互転換の蓄積が見出した形である、無限の経験が現在の行為にはたらくときに製作があるのである。製作は転換として内外相分れたものが一つとなることである、それは前に身体に直接なるものは未だ物ではないと言った如く初めから分れていたのではない、製作的生命として内外分れると共に一になるも のとなったのである。
内外一なるものは物でもなければ我でもない、私はそれを宇宙的生命と言い、物を作ることによって見出してゆくのを世界と言うのである。
生命が内外相互転換であり、物の製作が内外の統一であり、物の製作によってわれわれが自覚をもつとき、われわれの自覚は宇宙的生命の自覚と言わなければならない、宇宙的生命の自覚を映し、分有することによってあると言わなければならない。人間は手と言葉をもつことによって製作的生命となったと言われる、手と言語中枢は人間が作ったのではない、創世以来の生命の大なる形成の流れの中より出で来ったのである、生命が生命の中 に見出でた生命として現われたのである。
斯る宇宙的自覚は宇宙がその唯一性に於て負うのではない、一人一人の人間がもつのである。内外相互転換は個個の生命が負うのである。個々の生命が欲求的自己として外を内に転換し、内を外に転換することによって自己を形成してゆくのである、それは無数の個として形成してゆくのである。単なる個は何ものでもない、言葉は対話としてあるのである、我と汝が対立するものとして一つの世界を形成するものである。対立するものとして一つの世界を形成するとは、我と汝はこの形成的世界に於て自己を見るということである。私は経験の蓄積も斯るところに於てもつとおもう、経験の蓄積としての記憶をわれわれは言葉にもつ、それは我と汝の対話に於てもつということである。物の出現に於て我と汝はあり、我と汝に於て物の出現はあるのである。そこに世界が出現するのである。対話とは世界がそこに実現するのであり、そこより我と汝が現われるとは、我と汝は世界を映すものとしてあるということである。世界を映すとは世界を我の内に在らしめることである。而して世界を内に在らしめることによって我と汝は対話をもつのである、我と汝が対話するとは我と汝が映した世界が異なるということである、我の映した世界以外に我に世界はなく、汝の映した世界以外に汝に世界はない、それが世界の形成であるとは対話とは世界実現の闘争である。我が世界を映すとはこの我の個をとうして世界を実現せんとすることである、世界実現的に世界を映したこの我が人格である。
この我と汝は対立するものであり、対話するとは一なることである。対立するものが一であるとは、各々己が世界を実現せんとすることである。世界実現的に争うということである、斯く争うということは生命としての身体は個々として無限の陰影をもつということである。自覚的生命は直接的な本能性を超えるといっても食わずに居れるということではない、生命の中に生命を映すとはそれを包んでそれをより瞭らかにすることであって消えてなくなることではない、秩序に於てより大なる形をもつということである。食物は外としてならざるもの偶然としてあるものである、生存を至上命令とする生命の維持に我と争わなければならないものである。製作は偶然を必然ならしめるものとして、より大なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざまの技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するものと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではなかった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。
自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認なる生命の形に向しめるものである、それが食糧の増大である。食糧の生産にはさまざま の技術が必要である、斯る技術は与えられた自然としての内外相互転換の条件を克服するということである、与えられた条件を克服するということは今迄以上の力が必要ということである、そこに多数の人の集合が要請されるのである、集団として多数の者が一つの力 となるのである、多数の人が一つの力となるには統率者がなければならない、指揮するも のと随従するものがなければならない。外の変革には内の組織が必要である、斯くして外 の変革に向う内の組織に言葉が生れるのである。併しそれはまだ人格と言えるものではな かった、統率者は天の動きを見、地の動きを見、人の動きを見た、それは宇宙を映し、世 界を映すものであった。併しそこには命令があって対話がなかった、人格の萌芽であって未だ実現ではなかったのである。
自然を克服する集団の力は生産の大をもたらし、生産の増大は人口の増大をもたらした。それは更に大なる生産を要求するものであり、天変地異による災害をより悲惨ならしめるものである。それは集団と集団を闘争に赴かしめるものである。闘争は生死を賭けるものとして新たな技術を生み、勝者は敗者をれい属せしめることによって大なる地域を占有するものであった。そして新たな技術は多くの職能を生み、大なる地域は生産品の需要に於て職能を深化させていったのである。私は職能の深化は人にさまざまの徳を与えたとおもう、それは製作によって物に自己を映し、自己に物を映すものとして、宇宙的自己の把握をもったということである。普遍的人間につながるものをもったということである。私は私達の少時迄保持していた職人気質をそこに見ることが出来るとおもう。併しそれは人と物との関りであって、人と人とに関るものではなかった、私は一人の意志が万人を制するところに真に人格の成立はないとおもう。一人の意志が普遍的人間につながるとき、それは神格であって人格というべきものではなかったとおもう。人格は人として人格と人格が対するものでなければならないとおもう、人格と人格とが対するとは、統率者とその周辺のみがもっていた宇宙的生命の把握を多くの人々がもつものとなることである、言葉と手に於て自己の中に世界をもち、自己の世界を行為的に展開するものとなることである、一人一人が言葉をもつものとして、世界を映し、世界に映されるものとして、互の世界を認め合うものである。
私は真に人格が成立するためには近代の産業革命がなければならなかったとおもう、産業革命は人間の労働を機械の生産に置き換えた、そしてそのことは専制君主より多くの 人民を解放することであった。人類は自然の暴威に一人の統率者による集合の力を必要としなくなったのである。分業による一人一人の能力こそ最大の力となったのである、さまざまの分野に個性が尊重されてきたのである。個々の分野に人々は創意をもち得たのである。勿論それは一挙になし得たのではない。機械生産には大なる投資が必要であった、それをなし得たのは支配階級であった。併し多くの人々は創意に於てそれを打破ってブルジ ョア階級を打樹てたのである。それは神権、王権に対する民権の確立であったとは多くの人の説くところである。それによって直に人権が普遍性を得たのではない、女工哀史は近々百年程以前のことであった。旧支配階級による主従関係が依然として続いたのである。これを打砕いたのは第二次世界大戦であったとおもう、私は人格形成の立場から見て、個性による世界形成への脱皮と今次大戦を位置づけたいとおもう。人類の全てが内在する能力を発揮すべくなったのである。宇宙的生命の個として世界を映し、世界に映すものとなったのである。
人格は人格に対することによって人格であるとは対手の人格を認めることである、対手を人格として対することは我を人格とすることである、私は斯る意味に於て奴隷を認めた古代ギリシャの哲人や、帝王と民衆を是とした中国の古賢は人格というよりは神格と言うべきものであったとおもう、師の影三尺にして踏まずと言ったところには、教えはあっても対話はない、併し私はそのことは神格が人格より高いことではないとおもう。神格が内在的となったのが人格であるとおもう、内在的となるとは、言葉によって露わとなった天地の理法が人間の内なるものとしてはたらくものとなったということである。宇宙の創造を一人一人の人間が担うものとなったということである。言葉や製作として技術は本来斯るものであり、それが露わとなったということである。言葉が真に自己を露わにしない時に於ては人間は宇宙の内容であったのである。それが世界形成として逆に宇宙を内にもつものとなったのである。外に宇宙を見たことが神を見たことであり、内に宇宙を見ることが人格となったことである。全てのものは宇宙を映す、それが表現的にはたらくものとなったときに人格となり対話をもつのである。外を内として内が更に他となるの表現である。それは一々の人間が担うのである対話的に担うのである。
胎児が形をもつ最初の時に八つ目鰻の斑点の如きものが現われると書いてあるのを読んだことがある。それは人類が未だ海中にいた時の鰓の跡だそうである、それから両棲類に似て来、哺乳類の形となり、出産の時は猿に似ているのだそうである。そして類人猿の歩行に似たる姿を経て人体となるのだそうである。私達が今この姿をもっているということは生命発生以来の全過程を体現した結果としてもつということであり、更に我々が学ぶということは、歴史的形成の全過程を内にもつことであるとおもう。われわれは意識下に魚類の、両棲類の、哺乳類の生命衝動をもち、原始人類の、縄文人の、弥生人の欲求を潜めるのであり、意識はその上に打樹てられたものである。生命は意識下と意識の綜合としてわれわれの行動はあるのである。意識は生命が自己の中に自己を見たものとしてその根源に情動を有するのである。自己の中に自己を見たとはそれを否定し、克服してきたことである。自己の中に自己を見るものとして否定し克服したとは、それが無くなったのではない、より大なる生命の内容としての機能をもったので、それが意識である、意識はより大なる時間・空間の意味をもつのである。意識としての形成が歴史的形成である、それは生物的進化しての生体的変化ではなくして、言葉による否定の努力である。身体をして言葉の内容たらしめる努力である、人格はそこに成立したのである。否定的形成として努力とは限りない克己である、克己とは生体的個としての形成的欲求を言語的普遍への形成へ転 換せしめることである、情動に理念の衣服を着せることである、肉体的形成ではなく、 界形成によろこびかなしみをもたせることである、世界形成としての汝との対話をものと なることである、他者を手段としてではなく、目的として対するところに人格はあると言われる所以である、手段とは他者を自己形成の内容とすることであり、目的とは共に宇宙形成の内容となることである。勿論生命が身体的形成である限り、共同社会を営むものと して相互手段的であるのは避けられないことである。相互手段的であるのが生きてゆくことである、それを目的とするとはお互が対手を利用してゆくことが世界の自己形成の内容となることである、自己を否定して自己も他者も世界の実現の内容とすることである、自己と他者が世界実現の内容となることが対話である、そこは他者に自己を見、自己に他者に映して自己があり、自己に映して他者があるのである、自己の存在の為に他者があるのではない、他者に生かされ、他者を生かして自己の存在があるのである、自己に映して他者があるのではない、過去・未来の無限の他者に映して自己はあるのである、われわれの生命の欲求としての無限の時間、無涯の空間は我より出ずるのではない、無限の他者に映しているということである、対話はそこより生れるのである、他者として互に無限の生命につながり合うところに対話はあるのである、そこに相互目的として人格となるのである。相互目的として手段は目的であり、目的は手段である、それは単にわれわれの意識が変ったというのみではない、手段はより大なる手段となったのである、無限の過去と無限の未来の陰影をもつものとなったのである。産業革命に人格の基盤を求める所以である。私は 産業革命以後の国家が多く正義・友愛・自由等を旗印に掲げ、建設の基本理念としたのもこれによるとおもう、人格と人格とが対話をもつ社会、そこに人格は真の自己を見、実現せんと望むのである。
何処迄も生物的身体としての生命が他者に自己を見ることは絶えざる自己否定の努力が必要である、身体的充足は世界が自己に化すことである。食も性も自己の身体を中心に置き世界を転ぜんとする行為である、他者に自己を見るとはその根底に他者があるということである、欲求は世界や社会の中に於ての欲求であるということである。世界や社会なく して欲求は成り立たないということである。われわれの身体は生物的生命を超えて自覚的形成的生命となったということである、斯る自覚が自己否定としての努力をもつ生命である、このことはわれわれが自己否定の努力を失うとき、人はその人格性を失うということ である。身体的生命は絶えず自己充足を要求するのである、それを世界に転ずる努力に於 て人格性を保つのである、それは両者の闘争である、身体は肉体に於て絶えず利己ならんとし、言葉は絶えず利他ならんとするのである。肉体的欲求が優勢なるとき、言葉は肉体的欲求に従い、言葉の欲求が優勢なるとき、肉体は言葉の内容となるのである。それは手段と目的として、手段が目的であり、目的が手段である具体的世界に於て絶えざる対抗緊張である。斯る対抗緊張に於て人格は自己自身を見出でてゆくのである、それは生命形成の本源的形式である。目的が手段であり、手段が目的であるとは、目的は手段に自己を実現し、手段は目的によって自己を大ならしめるのである。個々の身体が自己の中に世界を見ることなくして世界はあり得ないのである。個としての身体が世界を包むということは世界を自己の意志の下におかんとすることである、斯る個的身体の根底にあるものは身体の充足的欲望である、それは反人格的なものである、手段は常に反人格的である。斯る自己が世界が世界を形成するところに見られるとするとき人格となるのである。神は反極に悪魔をもつことによって神となる、人格は神の内在である、何処迄も反人格的なものをもつことによって人格となるのである。私はキリストの原罪、親鸞の罪深重というのも斯かる人格の根源の自覚に於て成立したのであるとおもう。人格的に愈々深大となることは反人格的にも愈々深大となることである。斯る極はどうすることも出来ないものとして自己 放棄してそのままの受容に生きたところに成り立ったのであるとおもう。そのままの受容とは矛盾そのままを実在とすることである、闘うことそのままが根源的存在者の自己実現とすることである。そこに自己が摂取されることである。私は受容の世界に自己を放棄せず何処迄も世界実現的に克己に生きたところに人格があるとおもう。
長谷川利春「自覚的形成」