不生不滅

 寄せて来る波が砂に伸びて消え、新たな波が寄せては消える。目を上げると重々無尽、視野果つる所より千万の波がたゆたい寄せている。私はそれを見ながら思いを過ぎゆくものに移した。太古より幾多の波が生れ消えている。それは人生の生死にも擬え得るものである。併し思えば太古の波も、今寄せている波も同じ海の水のたゆたいである。起伏変遷があるということは大なる同一をもつことである。人間に於ても同じである。生死を見るものは生死を超えたものをもつことでなければならない。全ての生死を自己のたゆたいとする如き、生命の海に於て生死を見ることが出来るのである。

 私はかかるものの端的な表れを言葉に見ることが出来ると思う。言葉を作った人はないと言われる。言葉は太古よりの人と人との関り合いの中から生れたものである。而して生んだ言葉によって私達は私となったのである。私達は他人の言葉を語ることは出来ない。私の言葉は何処迄も私個有のものである。人と人との間から生れたもの、私ならざるものによって私は私となるのである。

 私は今ゲーテを読んでいる。ゲーテは既に死んでいない。いない人の本を読むということは、ゲーテの言葉は私の中に生かされ、私の中に生きることによって生命を持続することである。併し私の中に生きるということは、私がゲーテに生かされるということである。読むことによってゲーテの言葉は私の言葉と化す。併し私に化した言葉は私の言葉であって、ゲーテの言葉は依然としてゲーテの言葉である。

 言葉は普遍のものである。一人のみがもつ言葉というのは言葉ではない。我々は解続することによって、六千年前のスメル人の思想行動を知ることが出来る。それは古今を通貫し、東西に敷延するものである。併し言葉一般というものはない。言葉は何処迄も私の言葉であり、君の言葉である。私達は自分の言葉をもつことによって、対話するものとなり、人類の一員となるのである。個が一般であり、個が一般であることは、一般が個であることである。

 人間の身体のみにあって他の動物にないもの、それは言語中枢であると言われる。 言語中枢は人類が、生命創造の究極に見出でたものである。それによって我々は言葉をもち、他の動物に卓越することが出来たのである。その言語中枢は一人一人がもつ、人類という抽象的普遍がもつのではなくして、今この字を書ける我、田を耕せる君がもつのである。而してそれはこの我や君がつくったのではない。人類の壮大な生命の流れがつくったのである。

 言葉は既に述べた如く、無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達するものである。身体の生死を超えたものである。而して言語中枢は生死するこの身体がもつのである。生死する身体は生死を超えたものをもつ身体である。生死する身体が生死を超えたものをもつとは、語られる言葉は生死に関るということである。そこに人間の懊悩がある。

 人間が言語中枢によって人間であるとは、我々の自己は我々を超えたものによって自己であることである。身体が身体を超えたものをもつとは、超えたものによって身体が見られているということである。私達は初見の人に自己紹介として名刺を出す。その名刺には住所氏名職業が記されている。これ等は全て身体の存在を超えたものである。住所は祖先が拓いた土地にあり、氏名は血脈の連続の上にあるものであり、職業は限りない技術の伝統の上に立つのである。それを言葉が写したものが自己である。

 不生不滅は周知の如く般若心経の中に書かれている言葉である。心経は五蘊は皆空なりと照見して一切苦厄を渡すと書く。五蘊は生死する身体の欲求として、ここに書く身体に比すべきものである。照見された世界を色即是空と説く。即とは相反するものが一ということである。色は何処迄も空ならざるものであり、空は何処迄も色ならざるものである。それが直に一ということである。相反するものが一であるとは、相互媒介的ということである。色は空によってあり、空は色によってあるのである。

 色が何処迄も空ならざるものであるとき、色が見ることの出来るものであれば、空は見ることの出来ないものでなければならない。見ることの出来ないものが、見ることの出来るものと一であるとは、見えないものははたらくものであり、見えるものは、はたらくことによって見出されたものでなければならない。前に言った如く一般が個であり、個が一般である。それは矛盾である。併して生命は矛盾として動きゆくのであり、矛盾は時間の論理である。

 言葉をもつということは自覚的ということである。自覚とは自己の中に自己を見ること である。空がはたらくものであり、色が見られたものであるとは、自己の中に見出でた自己として、空がはたらくとは色がはたらくことである。人間生命がはたらくものであるとは、この我、汝がはたらくことであり、この我、汝がはたらくことは、普遍的人間生命がはたらくことである。

 色は相対するものである。全て見出されたものは相対するものとして見出されたものである。右は左に対し、求心力は遠心力に対す、 我と汝があるということは、我と汝は相対するものとしてあるのである。相対するものは相互否定として相対するのである。右は左の否定としてあり、求心力は遠心力の否定としてある。我と汝も否定し合うもの、相争うものとして我と汝なのである。

 斯く否定し合うところが空である。空がはたらくものであることによって、空に於て我と汝は否定し合うのである。お互が身体を超えた世界をもつものとして、世界に於て我と汝は相対し、相はたらくのである。この我を色身として、この我と汝がはたらく処として、世界が空の意味をもつのである。

 はたらくとは否定し合うことである。否定し合うことは、はたらく世界が自己自身を見 ることとして否定し合うのである。世界は競争の場であり、人は競争に打勝たんとするのである。それは実業界であろうと、芸能界であろうと、人と人との関り合うところ例外はあり得ないものである。而してその競争をなすところとして必ず業界があるのである。我と汝の競争は業界の発展として、競争の裡に業界は新しい自己の相をもつのである。個が普遍であるとは常に斯る形に於て、現実として実現してゆくのである。否定し合う我と汝は業界の発展に於て結びつくのである。はたらくとは世界を内にもつことであり、世界を内にもつことによって、否定し合う我と汝は、お互に内にもつ世界によってつくられたものとして肯定し合うのである。否定が肯定であり、肯定が否定である。それは生死するものが超越的である我々の身体より出でるのである。

 生死する身体に写した超越的なるものが業界である。我々はことではたらくものとして 物を作るのである。それに対して超越的なるものに身体を映すとき、身体がそこにはたらく業界があると共に、業界がそれによってある世界があるのである。業界が自己自身を創っているものである如く、それは自己自身をつくってゆくものである。業界が生死する個を包むものとして、時の内容としてあるのに対して、時を包むものである。業界が個人の否定を媒介として自己創造をもち、自己創造に於て否定を肯定に転じた如く、業界の創造を、創造あらしめるものとして絶対普遍に転ずるものである。

 そこは究極的一として顕れも隠れもしないものである。一瞬一瞬にあらわれて消えつつあらわれ消えるものを自己の陰とする存在者である。それは恰も大海の水の如く、万波を自己の揺曳とするものである。業界は一つの湾に、個人は一つの波にも比せられるであろう。水は大なる力として、現われて消えるのは全て自己の中である。初めも終りもその中 のたゆたいである。

 般若心経は知見の書と言われる。知見とは言葉によって見ることである。言葉はそれによって我と汝を見、過去と未来を見るものとして超越的なるものである。我と汝、過去と未来はその中に見られるものとして、超越者のたゆたいの起伏に外ならないものである。この我がそれによってあるものとして、我をあらしめる超越者の大なる目となってこの我を見たのが不生不滅である。

 不生不滅の世界は一者として静寂である。併しそれは何もなき静寂ではない。無限の動きをもつものとしての一者であり静寂である。全てのものがそこに生れ、そこに消えゆく 一者として動乱と混迷を超えた大知見の静寂である。全存在への思量底の静寂である。

 色は空ならざるもの、空は色ならざるものとして相互媒介的にあるとき、色身としての この我が空に媒介されるとは、空によって否定されることでなければならない。空によって否定されるとは、色身がなくなることではない。無くなるところに相互媒介はない、 身が空の形相となることでなければならない。それは色身としての欲求的行動が言葉の内容となり、言葉によって新しき形相を得ることである。

 相互媒介的に否定されるとは死して生れることである。我々は日々の行々歩々、大なる生命の中に死ぬことによって生きるところに自覚があるのである。生き切るとは、死に切ることである。愛語よく回天の力を有すと、道元は言う。愛も慈悲もそこより生れるのである。

 色身の死に切ったところが、自覚的生命の生き切るところとして不生不滅はある。自覚的生命の大なる表現的世界は色身の生死を超絶するのである。自覚的生命としての人間はそこに生きるのである。 ロダンも道元も二宮尊もそこに生きるのである。不生不滅は冷岩枯木となることではない。言葉をもつことによって真に熱き血潮となるのである。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」