不安について

 心電計のかた、かた、かた、かたと言う音が聞こえて来る。手や、足や、胸なぞに貼りつけられている蛸の吸盤のようなものが信号を送り、それを受けて作動しているらしい。

 俺の心臓に何か異状があるのではなかろうかと思う、あれば仕方がないと思う。心臓麻痺、心筋梗塞の可能性も聞いて置こうと思う。

 やがて吸盤のようなものが外される。起き上がって機械の方を見ると、紙の上に波のようなものが描かれている。「どうですか」と聞くともう一度目をとおしてにっこり笑いながら「先生に読んでもらって下さい」と言って渡される。身体は私其のものである。而し私達はその身体について何も分かっていないのを今更のように思う。身体だけではない。商売についても、人の心についても私達は何も分かっていないように思う。

 不安は人間のみが持つと言われている。生命をもつと言っても植物や、外の動物は 不安を持たない。動物も死をもつ、而して死に直面して恐怖する。而し健康な時に不 安をもつ事はない。私はそれは植物や、動物が生命として一つの完結をもつが故であると思う。

 植物は芽生え、成長、開花、結実の循環が必然である。動物の生命も種族的である。種族保存として本能的である。種族的として固体の行動は生得的である。生死は種族の自己維持の循環としてある。自己完結を持つ、其処に生の不安はあり得ないと思う。それに対して人間は自覚するものとしての意識をもつ、意識を持つとは世界の中にあるものが逆に世界を自己の内容とする事である。生命が外に、対象的に自己を作っていく事である。世界として我と汝が相見え、相対する個的生命として、自己の個性の尖端に世界を作って行く、それが何処迄も表現的世界に於いて、歴史的表現的なるものを媒介するが故に世界の自己実現となるところに我々の意識が成立する。自覚とはこの働くもの、行為的表現的主体としての自己把握である。我々の自己とは、この働く事によって得た世界を内包するものとして自己である。私達は自己紹介をする時に、住所氏名と共に業務地位を言う。前者の自然的、所与的なのに対して、後者は世界に於いて、働く事によって如何に世界を内包せるかを示すものである。自己を明確に示すものはこの職業、地位であり、我々が通常自己と言う場合後者の立場に於いて言うのであると思う。而して斯る自己が生まれるのは表現としての歴史的世界である。ここに於いては子も親から生まれるのではない。各々が伝統的技術の中から生まれるのである。而しこの事は我々が身体的なるものから離れる事ではない。否それは何処迄も身体的なものである。手を持つ事によって人間が生まれたと言われる如く身体的なるものを外に表出するのが、働く事であり意識を持つ事がある。この個としての身体の表出によって自己がある。自己の中に世界を見るものとして我々の死は、動物 的、種的連続の意味を超えて絶対の断絶である。我々は無に帰しいくのである。其処は限り無く深い暗黒である。

 相対するものは相互否定的として相対するのである。物と我、汝と我は否定し合うものとして物と我、汝と我である。田園を耕さなかったら忽ち飢餓として我々に死を迫って来る、牧歌的として歌われる田園は決して我々に友好的ではない。汗の代償として我々に穀物を恵むのである。日々の新聞はあらゆる事業界の激烈な闘いを報ずる。 繁栄の裏には喰うか喰われるかの争いがある。それが現実の相である。そこは羨望と、嫉妬と、怨恨の渦巻く所である。我と汝は笑顔によってのみ相見えるのではない。ひきつる顔が常にかくされているのである。

 私は先に自己の意識は世界の自己実現の内容となる処にあると言った。この自己と しての個的生命は歴史的表現的なるものを媒介としてのみ自己を実現する事が出来るのである。この事はこの我が何処迄も自己実現的である事は、歴史的世界が自己実現的である事でなければならない。而して海に棲む魚が海を知らない如く、我々にとって歴史的世界の動きは知るべからざる深淵である。内容にとって形式は不可知者である。単なるこの我と言うのはない。我はあく迄汝に対する事によって我である。而してこの我は個の尖端に見出でた世界に於いてこの我である。この事は亦汝は汝の個の尖端に見出でた世界に於いて汝でなければならない。斯く各々の世界を持つ事にあるものとして、我と汝は絶対の深淵を距てるのである。唯歴史的表現的世界に於いて出合うものとして知る事が出来るのである。而して世界は無数の個的生命を内包するものとして、それ自身の限定を有するのである。

 喜怒哀楽を内包しつつ、喜怒哀楽を超えて動転するのである。この中に我々は無に 帰するのである。表現的世界に於いて限りなく深い暗黒があると言ったのは斯る歴史 の世界である。表現的なるものは歴史的なるものであり、歴史的なるものは表現的な るものである。而して斯く自己を超えたものの内容として、我々の存在は運命的である。物と我、汝と我の出会いも運命である。運命は自覚的表現的世界の底に見られるものであり、それは底知れぬ暗黒を潜めるものである。我々は運命的存在として日々の行行、歩歩は不安である。斯るものとして我々がこの我として歴史的世界に遭遇する時、唯虚無と絶望の鉄壁があるのみである。歴史的表現的世界に於いて、生は限りなき喜びであり、死は限りなき悲しみである。

 而し歴史は暗黒に於いてのみ歴史であるのではない。暗黒は明白に於いて見られる。表現的世界は展かれゆく光輝の世界である。不安は神に至る道であり、無常は涅槃に入りゆく道である。真にあるものは今この字を書ける我であり、語りいる汝であり、人間一般と言うのは何処にも有り得ない如く、世界も亦個的生命なくしてあり得ないものである。この我、かの汝が歴史的形成的として有する無限の底が、歴史の無限の底となるのである。限り無い暗黒は我の死である。我の死なくして歴史の深淵はあり得ない。而してこの我が伝統的技術の中に生まれ、其の上に新たな技術を展き、次代に伝える歴史的創造者となる時、人格としての生命は身体的生死を超えた所になり立つものとして、永遠の意味を持つのである。我々はこの永遠の目に於いて、生死する自己を有限と見るのである。自己が自己を見るのである。而して自己の中に見られた自己が自己である時、我々は絶望の淵に逢着せざるを得ないのである。目は目自身を見る事が出来ないと言われる如く、見るものは形象的に無である。而して見られるものとしてではなく、見るものとしてこの我はある。真個の我は見る我である。自覚的、表現的に自己があると言う事は歴史的形成の目として見ると言う事である。

 我々が自己自身を知るのは単にこの我が知るのではないと思う。我々は自己を知る ものとして生まれ来ったのである。人類の一人として、人間として知るのである。我を超えたものの内容として知る。この我が知ると言う時この我は我を超えたものとして知る事が出来るのである。この我を超えた我の見るはたらきが歴史的形成なのであ る。我々が真実の自己を求めるのはこの歴史的世界に於いてであり、真実の自己が重々無盡なのは自己を超えたものの内容としての自己が超越的根底に還らんとするが故に外ならないと思う。全歴史は自覚の内容であると言う事が出来る。我々は自覚するものとして、何等かの意味に於いて歴史は我の裡にあるのでなければならないと思う。歴史の内なるこの我の胸底に全歴史は流れるのである。斯るものなくして自覚的、表現的としての歴史的形成はあり得ないと思う。超越者としての永遠の目によって我々は自己を知る事が出来るのである。

 而し超越的無なるものは何処にも存在する事が出来ない。存在する自己は生死し、喜怒哀楽を持つこの我である。この我が生存せんとして働くのである。この身体の表 出として見るのである。この事は絶対の矛盾である。この身より出ずるものがこの身 ならぬものである。此処に我々の存在は無限の不安と迷妄となる。而し絶対の矛盾なるが故に廻心があるのである。其処に無明はそのままに生の完結を持つものとなるのである。知るものとして、身体的有としての我が、直に無として超越的自己としてある。世界の中の一人が、世界の底より働くものである時、そこに自覚的生命は初めと終わりを結ぶのであると思う。

 しかしこの事は言うは易くして、行うは難い。直に無となる事は、生きつつ死ぬ事で なければならない。佛教で言う大死する事でなければならない。有りつつ無くなる事 でなければならない。其は生の究極の世界である。

 世界の底より働くものとしての宗教の世界である。此処にあるものとあるべきものとが一つとなるのである。我々の不安は、ある我があるべき我でない処にあった。動物に於いて個体が直に種的生命である処に本能的欲求的生の完結がある如く、此処に 自覚的生の完結があると思う。見るもの働くものとして、この我が無となる時、外としての世界が我となるのである。そこに廻心がある。草木瓦礫悉皆成佛となるのであ る。世界は我を呑み込む処ではなく、我の内となり、深淵の暗黒は我の形相として無 限の光輝となるのである。

 完結を持つ動物に不安のあり得ない如く、我々は此処に不安なき生命を持つ事が出 来るのであると思う。種的生命として動物の個体が完結する如く、全人類として我々 の生は完結するのである。唯、「死の断崖に身を絶して絶後に蘇る、」と言った深大な 体験を持たない私は、その間の消息を語る資格を持たない。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」