一期一会

 私達は言葉を介して自己自身を知る。私の言葉は私が事に触れて自分を見出だしてゆく私の表れである。そして日本語は日本人が見出だした日本の表れであると思う。一つ一つが日本人が作り出した日本の姿であると思う。私は其の中に於いて一期一会は最も深く日本の心を表わす言葉の一つであると思う。儒教の仁、キリスト教の愛にもすべき深い内容を持っていると思う。深いと言うのはそれによって、日本人の心のあり方の全体像が掴まれ、それは人間存在の本質的普遍を露わにすると言う意味である。以下少しこの言葉が内包するものを考えて見たいと思う。

 一期一会と言うのは、この時、この出会いと言う事であろう。流れる時のこの一点としての今の汝との出会いと言う事であろう。この今とは如何なるものであるか。これを明らかにするために時間について立ち入って考えなければならないと思う。

 時間は通常過去、現在、未来として、無限の過去より、無限の未来へ流れるものと考えられている。現在は掴むべからざる唯無限の流れと考えられている。而し私達は単なる流れから時と言うものを見る事も掴む事も出来ない。水の流れは時を映す。而し時の内容を持たない。其処から私達は時を捉える事は出来ない。時は変ずるものでなければならない。而し単に変ずるものも亦時と言う事が出来ない。自然は変ずる。花は咲き、花は散る。而し其処からも時の意識は生まれる事が出来なかった。人間は先ず暦によって時を捉えたと言われる如く、農作業によって世界に面する時、世界は時の形相を持ったのである。即ち時は行為によって対象に投げかけた自己の相である。斯るものとして時間は人間の主体に即して見られるものである。行為とは如何なるものであるか、対象が死として迫って来るものを、働く事によって生に転換する事である。放置すれば雑草、乾燥のために餓死しなければならないのを除草、潅漑の努力によって豊かな生に転換さす事である。変ずるものは全て内在的矛盾によって変ずる。斯る内在的矛盾的なるものが自覚的行為的として外に、物に自己を見てゆく、この物に自己を見てゆく技術的操作の内容が時間である。物が過去として、あるべき相が未来として、行為的現在の内容となり、時の相が成立するのである。物は技術的、表現的に決定された過去として現在の中に死んで行き、行為の中に新たなものが生まれるのでる。行為は事実的として、この現実の中に過去と未来は動転するのである。時は自覚的表現的生命が自己自身を見た相である。よく記憶に於いて過去があり、希望に於いて未来があると言われるのは、この我が自覚的事実として、行為的現在の立場に立つが故に外ならないと思う。我々は働く事によって未来と過去をもつのである。企画し、想起するのである。斯くして現在は事実的として過去と未来をふくむ全時であり、永遠の相をもつのである。而して現在は絶対に否定さるべきものとして現在である。現在が現在自身を否定するものとして現在である。死すべく生まれて来た生命は恒常の相より見る時矛盾である。絶えざる生より死への推移である。斯る生命が自己自身を知るものとして人間がある。移る瞬間は捉える事が出来ない。而しこれを捉える事なくして自覚はあり得ない。この捉える事の出来ないものを捉えるのは、瞬間を捉えるのではなく、瞬間が瞬間自身を見るものとして初めて捉える事が出来ると思う。それが現在であり、瞬間が自己自身を見るものとして行為の根底は直観である。生より死へとして自己を絶対に否定する所に現在がある。而して否定を肯定に転じ、死を生に転ずるものとして現在である。時は現在より現在へ、永遠より永遠へと移るのである。

 技術的発展は歴史的であると共に、歴史は技術的展開的である。ナイル川の氾濫と恵みがエジプトに暦を生んだ如く、時は其の奥底に於いて歴史的時である。歴史は無数の個的生命によって作られる。無数の個的生命が物と我と相対し、我と汝と相対するものでありつつ、それを自己の内包する矛盾としてそれ自身の自己限定をもつのが歴史である。物と我、汝と我とは対立するものとして、絶対の否定をもつのである。死の深淵をもって相距てるのである。これを統一するのが歴史である。 我と汝は技術的表現的物を見る事によって結ぶのである。表現的世界に於いて出会うのである。この事は亦表現的世界の中に於いて我と汝は相対するのでなければならない。自己であるとは世界の中にあるものが逆に世界を中に見る事である。製作者として、歴史的、 技術的なるものを所有する事によって作るものとなるのである。斯く世界を内に見るによって作るものとなるのである。斯く世界を内に見る事によって我は種的連続を超えて絶対の生となるのである。絶対の生として死は絶対の死となるのである。斯るものとして歴史は限り無い暗黒と光輝である。愛と罪である。歴史的世界は一人一人が担うのである。世界が深くなるとは一人一人がいよいよ深くなる事である。より大 なる世界を内容とする事である。意志は世界を所有せん事を欲し、神人たらんとする。それは他者の絶対の否定である。其処は果てしなき闘争の世界である。而し我があるとは我と汝が相対するものとしてあった。汝の否定は我の否定である。技術は死に面しての生への転換として、絶対の死をもつ処に見出されるものであつた。しかもそれは歴史的として多数の人々の間から生まれるものであった。自己として世界に面する時如何なるものも其の深淵に無として消え去るのみである。流れる時の前に英雄も亦槿花一朝の夢に外ならない。

 私は前に我々の自己は世界の中にあるものが逆に世界を内にもつ事によって有ると言った。歴史的技術的世界を内容とする事によって、物としての世界を働く事によって転換する処にあると言った。この事は世界を内容とする事は愈々深く世界の内容となることでなければならない。我々が自己を見出でて出ていく事は世界が自己を見でてゆく事でなければならない。真の自己は物そのものとなって働く処に見られると言うのはその間の消息を語るものであると思う。真に創造的なる時寝食を忘れるのである。斯るものとして世界と自己とは、生命創造の両極に見られる一なるものの影であると思う。真なる生命は個的、世界的として、自己の中に絶対の否定をもつ無の限定と考えられるものであると思う。この絶対否定を以って対するものが無に於いて自己を限定するものの両極として真に一なる時、我々は歴史的形成的となるのである。而して無なる生命は形相的に自己を限定するのである。この限定された形相が限定するものである処に、無の限定はあるのである。そして無の限定の方向に世界が見られ、形相の限定の方向にこの我があるのである。世界はこの我の根底として、我々は其の中に埋没してゆくのである。而しこの我は世界を作るものである。其処にこの我が 世界に蘇る契機がある。世界の手となって働き、世界の目となって見るのである。世界は多くの人が寄って形造るものである。世界は多くの人が多くの人でありつつ、世界として自己自身を創ってゆくのである。世界が一つであるとは多くの人が自己を捨てる事である。多くの人が多くの人であるとは個性に於いて世界に参加する事である。私は前に行為は意志であり、意志は世界を自己の内容とせん事であり、他者の否定として結果は自己を否定する悪であると言った。斯る意志が逆に世界の内容となり、行為は自己を見るのではなくして世界の実現となるのである。悪の否定は善である。世界を内容とする事によって見られる自己は世界そのものとなる事によって完成するのである。其処は自己の絶対の肯定である。其処は愛の世界である。お互いが自己を否定してより大なる世界を実現せんとする関わり合いが愛である。

 私は真に人が出会うのは斯る処に於いてであると思う。意志として物を介して相対する処に尊ぶべき出会いは無い。自己を否定して世界を実現すると言っても単に世界と言うものは無い。我、汝、彼の無数の人の関わり合いである。関わり合いとして、自己を否定するとは汝に否定するのである。我と汝があって出会うのでなく、無として出会いの中から我と汝が見出されるのである。今としての我が生まれるのである。この新たな我が生まれると言う事が世界が世界を作ってゆく事である。新たなる自己が見出されると言う関わり合いの密度が、より大なる世界が実現されると言う事である。よき出会いは言葉、礼節と言った歴史的技術的なるものを介し、その最も適切なものを選ばなければならない。其処に今の生命が生まれるものとして一期は永遠の今の意味をもつのでなければならない。一会は新たな自己が生まれるのでなければならない。斯る意味に於いて同じ人との出会いに於いても刹那刹那が一期一会である。木も石も亦汝として出会いである。生命は生の事実として自己自身を維持する。生の事実はこの我であり、汝である。出会いである。出会いの中から我と汝が生まれる。生まれた我と汝が、我であり、汝であるとして出会う時に対立が生まれ、否定が生まれ我は汝を我の実現の内容たらしめんとし、汝は我を自己の実現の内容たらしめんとする。一期一会は再び初めの出会いに還る事である。もとより一度見出でた自己は単なる無に還る事は出来ない。自覚内容としての時は一瞬の過去にも還る事は出来ない。此処で自己は自己でありつつ自己でないものとなるのである。自己を絶対に否定して世界となり、出会いの中に新たな自己となって生まれるのである。死して生まれるのである。生命が生の事実として自己を維持するとは、この死して生まれるものとして、自己を維持するのである。一瞬一瞬再び同じ事のあり得ない我々の意識はこの死して生まれる処より出でて来るのである。一期一会は斯る生の実相の自覚であり、実現であると思う。無の中に死に、無より生まれるのである。

 私達は知る者として自己であり、知る者として人間である。私達は知る者として生まれ来り、知る事によって自己となる。知る生命はこの我を超えた大なる生命である。この我を超え汝を超えて、この我、汝に生みつぐものとして、人間の本質である。我々が知り、働くのは、この生命が我に於いて働くのである。形なくしてこの我に於いて形を実現するのである。無の中に死に、無より生まれるとはこの大なる生命に於いて働く事であり、大なる生命が働く事である。形なくして、この我に形を実現するものとして真に働くものは大なる本質としての生命である。我と汝を超え、我と汝を関わらしめるものとして、無数の個的生命を超え、無数の個的生命を包んで一つならしめるものである。本質は働くものであり、此処に於いて全ての現象は一つなるものの示現である。此処に於いて我々は自己の生まれる前の過去、死した後の未来を内容とする事が出来るのである。現在が過去を孕み未来をはぐくむとは斯る働きから考えられるのであり、前に現在が永遠の今としてあると言ったのは断るものとしてである。我々は働くものとして、本質的なるものの実現として全存在を宿す事が出来るのである。永遠を未来の面目とする永遠の影としてあるのである。ゲーテの言える如く我々は働く事によって救われるのである。

 この一なる生命の中に無数の個的生命が生まれ死に、対立し統一してゆくのが歴史 である。一即多、多即一として、時に多の原理が働き、時に一の原理が働く。而してこの無限の過程が一つになる時歴史がある。一期一会は今、此処として最深なる一者 の表れとしてあるものである。全てが自己を否定し、そして表れる形としてある。生と生の対面の中に時は包まれるのである。この我、汝として歴史の中に際会しつつ、絶対の自己を否定として、汝に生き、他者に生きるものとして永遠に面するのである。

 勿論私は斯る自覚の下に一期一会の言葉が生まれたと言うのではない。否言われる如く日本人は君の臣、親の子、夫の妻として生を見出したと言う事が出来る。昔の日本語に人格と言う言葉がなかったと言われる如く、其処に真の自己はあり得なかったと言い得る。前にも書いた如く自己は世界の中にあるものが逆に世界を内容として見られるのである。而し私は其の故に一期一会があり得たと思う。日本の文化は情的方向に見出でたと言われる。情に於いて自他は直に一つである。古代ギリシャの悲劇を読む時、私達の胸は暗澹たる雲に閉ざされざるを得ない。もらい泣きと言う言葉がある如く、他者の涙が己れの目に溢れて来る。吾がほほえみは他者のほほえみとなる。あるものが一つのものとしてある。斯るものとして日本の形は調和の形であったと思う。全体の中の一である。自然の中の家であり、家の中の一室であり、一室の中の器具である。家は自然を写し、一室は家を写し、器具は一室を写すのである。人は一人一人が宇宙を写すものとして、出会いの相手にいたるのである。主は客を写し、客は主を写すのである。其処に宇宙的生命を見るのである。調和は存在を大円と見、個々は大円を写すものとして大円を実現する事であると思う。そしてこの大円の基礎をなすものは自他直に一つなる情の波動であると思う。

 その故に私は一期一会は日本的特殊の意味をもつと思う。個的なるものが極小化さ れ、全体の中に没してゆくのみである。形は宗に還るのみである。働くものはこの我であり、汝である。この我が見えてゆくとは常に新たな我となってゆく事である。瞬に自己を破ってゆく処に自己がある。それは世界が自己自身を破って新たな世界を見てゆく事である。生命は否定が肯定として内外相互転換的に自己を維持し、形成してゆく、其処に時があり生命は時である。大円に没し、宗に還る処に時はない。あるものは時なき無辺の平面である。生命は常に自己限定的に動く。それが形をもつ時、今、此処として特殊化する。特殊の背後には常に普遍的なるものがあるのである。日本的特殊も亦風土と民族性を負える人間の自覚的限定である。而して特殊は普遍に還 る事によって真の形象をもつ事が出来ると思う。全は個を含む、而しそれは没するものではない。否定契機として含むのである。其処に自覚がある。其処に真の調和が生まれる。出会いはこの我と汝の出会いである。この我と汝は世界を内に含み、世界実現的に働くものとして、人格としてこの我であり汝である。其処に私が前に書いた一期一会があり、一期一会の普遍があると思う。一期一会は真の形、形象をもつ事が出来ると思う。西洋的近代自我の洗礼を受けた我々にとって、宗に還ると言うのは浮遊の如き感なきを得ない。よく茶道に於いて一期一会が言われる。而しそれは最早我々の自己限定より離れた遊戯の感なきを得ない。出会いは現実のこの我の自己限定として出会うのである。織豊、江戸の時代にはよく現実限定の意味を茶道は持っていたのだと思う。古い皮袋に新しい酒を入れる事は出来ない。時代と共に形は亡びる。而しそれが日本的真理である時、日本人の中に新たな装いを持って生まれるのでなければならない。人間的真理である時、人間と共にあり続けるのでなければならない。その為に私は私の考えた如き論理的基盤がなければならないと思う。

 私は冒頭に、それは人間存在の本質的普遍を露わにすると言う意味であると書いた。それは論理の普遍的構築をもつ事であると共に、よく他の特殊との対面に耐え得るものでなければならないと思う。以下これについて少し考えて見たいと思う。現代は多様の時代であると言われている。人間は自覚的として物に自己を見てゆく。外に限定してゆく、この見出してゆくものとしての主体の性格と、見出されるものとして客体の性格によって一つの形式が生まれる。性格が異なる時異なった形式が生まれるのである。それが現実に於いては民族性と風土として形式を決定するのである。多くの民族が各々特有の形式をもち、それを持続するのが多様である。而し世界は世界として一つたらんと意志を有する。歴史的意志として現在を決定せんと欲する。斯るも のとして世界の現在の矛盾を最も救済するものが主流となる。最も深い世界史的自覚を持った特殊が世界史的普遍として他の特殊を指導し、一つの時代を形作るのである。他の特殊はそれに追随してのみ特殊となるのである。近代に於いて世界史的普遍となったのはヨーロッパであった。而し栄えたものは衰える。私はヨーロッパは自己自身の内在的矛盾によって衰えるのであると思う。世界を知的、意志的方向に見た泰西文化は、分割、対立として、形相的に展開して行ったと思う。我思う故に我ありは近代ヨーロッパを象徴する金字塔である。而し分別、対立は何処迄も分割、対立である。西洋哲学は全て克服されるべき課題を持っていると言われる所以であると思う。生成期に於いて個は世界の個であった。自我は世界の創造的尖端として自我であった。創造的尖端であるとは常に世界を破る事によって創造的尖端である。自我が自我である時、世界が失われる所以が其処にある。英国病と言われる生産を無視した賃金の要求。山猫スト等肥大した自我の末期症状であると思われる。多様とは斯る指導原理の崩壊と、新たな指導原理の模索の過程に見られるものと思う。新たな指導原理は突如として生まれるのではない。それは過去を受け継ぎつつ、過去の矛盾の救済として生まれるのであると思う。それは亦過去の自覚に匹敵する大なる論理を潜めるものであると思う。私はヨーロッパの崩壊は分別、対立が初めと終わりを結ぶものを持たない。直に一つなるものを持たない事に原因すると思う。それに対して日本的自覚は直ちに一つとして対立するものが極小化されている事はすでに述べた。宗に還るものとして、初めが終わりであり、円還的であると言った。私はこの相反するものの統一が次の世界の形象を生んでゆくように思われる。勿論歴史は歴史自身が決定する。個の意志を超えてより大なる自己の相を選擇する。それは我々の思惟を絶するものである。而し歴史は我々の作るものである。多くの人の構想の綜合である。ともあれこの頃よく 新聞紙上に欧米の学者により、二十一世紀は日本の世紀であると言われている。そして日本の人々の間に一期一会、出会い、ふれあいと言った言葉が多く語られている。私にはそれが何かを暗示しているように思われる。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」