一即多

 生命は無限に動的である、動的とは内に否定をもつことである、矛盾として対立するものをもつことである。対立するものが何処迄も相互否定的なることによって動いてゆくのである。私は斯く内に対立を孕んで無限に動いてゆく生命は一即多、多即一とし自己を限定してゆくのであるとおもう。一は多ならざるものであり、多は一ならざるものである。 それは絶対に相反するものである。斯る相反するものに於て生命形成はあるのであるとおもう。生命は身体的に自己を形成する、私は一即多、多即一の直証を身体に見ることが出来るとおもう。

身体は内外相互転換的に形成的である、内外相互転換的とは外を内に換えることである、外を食物としてそれを摂ることによって身体と化せしめることである、転換による摂取と排泄に於て形作ってゆくのである。

生命は物質より出来たと言われる。そして地球上に存在する物質の量に比例する組成をもつと言われる、われわれの内外相互転換とは、身体は自己を組成するものを外として内外相互転換をするのである、私は生命は斯るものとしてその形成を求めるには先ず物質を 探らなければならないとおもう。

 物理学者によればわが天体とする光り輝く無数の恒星は宇宙の物質の十分の一を占めるのみであり、十分の九は目に見えない微粒子であると言われる。その微粒子が何かの契機で集合を初め、そのエネルギーで灼熱し、光明を放つのが恒星であると言われる。宇宙に遍満し構成する微粒子とは如何なるものであろうか、遍満し構成するものは一々が他者と関り合うものでなければならない、関り合うとは他を限定すると共に、他によって限定されるものでなければならない。関係するものとは相互限定的に一なるものでなければならない、相互限定的に一であるとは、関り合うものは個物として相互限定的に自己を実現するものでなければならない。関係することによって実現するものとして、個物の限定は世界の実現であり、世界を実現するものとして個物の一々は世界の中心の意味をもつのである。遍満する微粒子は一々が宇宙の中心として宇宙を映すところに全宇宙はあるのである、そのことは一々の微粒子はその関り合いに於て全宇宙の内容となることである。一々の微粒子が宇宙を映すということが宇宙が自己を形成してゆくことである。

 生命は斯る物質の発展として、相互否定の自己実現を代謝作用にもったものである。絶えざる食物の身体への変換に於て自己を維持してゆくものである。斯る食物は身体への変換可能なものとして組成を等しくするものであり、その最も直接なものとしての他の生命である。即ち生命の食物連鎖として生命は内外相互転換を行うのである。而して前にも書いた如く、生命はその発生に於て地表の物質の組成を模するのである、その地域の生命は地域の組成を模するのである。摂食によって生命形成をもつとは食物によって形作られることである、食物によって作られるとはわれわれの生命形成は外を映すということである。食物としての他の生命は我ならざるもの、他者として我に対立するものである。他の個的生命としてそれに遭遇することは偶然であり、その獲得は努力である。山野を駆けめぐり、水中に潜らなければならないのである。そこから身体の形は生れてくるのである。宇宙の一つとして地表はあり、生命は地表を映し、食物連鎖として生命が生命を映すところに身 体があるとは、身体は宇宙の凝縮としてあるということである。宇宙の凝縮としてあると は、宇宙が自己の形として身体に見出したということである。身体は行動することによっ て宇宙を実現してゆくということである。斯る形成に於て外は無限の多となるのである。 而して転換に於て無限の多は身体として一なるのである。併しそれはまだ真に一即多、多 即一と言うことは出来ないとおもう、食物連鎖の食物獲得だけでは宇宙の内容ではあって も、宇宙を内にもつということが出来ないからである。

 私は真に一即多、多即一となるためには人間の自覚に俟たなければならないとおもう。自覚とは自己の中に自己を見ゆくことである、自己の中に自己を見るとは内外相互転換としての生命の営為を更に映すことである、それが経験の蓄積である。経験の蓄積とは一瞬一瞬の内外相互転換を統一し構成することである、それが製作である、製作に於て外が物となり内が主体となるのである。一瞬一瞬の統一に於て時間が成立し、製作としての形の出現に於て空間が成立するのである。時間の成立は空間の拡大であり、空間の拡大は時間の成立である。時間・空間の成立は世界の成立である。私達が原始生物の世界という場合 にも断る意識を投影しているのである。

 製作として物に形を見てゆく世界は最早食物的環境として、この我が身体の欲求充足に生きる世界ではない、表現に生きる世界である。表現に生きるとは、この我がそれによってあるものを表わすことである、この我は宇宙が無限に宇宙の中に映すことによって出現 したものであった、その自己の身体中にある宇宙を映し出すことである。物はわれわれに有用なものである。その限りに於て欲求充足的である。併しそれは与えられたものが、与えられたものを超えて見出したものである。もともと欲求的生命自身が、宇宙が内外相互転換的として宇宙の中に宇宙を見るものであった。それが外に形をもったということは、更にそれを超えて自己の中に自己を映したということである。食物的環境に於ての内外相互転換の転換のはたらき自身が自己を見るのである、自己の中に自己を見るとは見るものを見ることである。そこに製作としての物の形は宇宙の表現の意味をもつのである。最も深くはたらくものが形にあらわれたということである。

 製作とは宇宙が宇宙を映すところより生れ来ったのである、人類はそれを担うのである、人類が物を作るということは宇宙が宇宙の中に宇宙を見ることである。経験の蓄積として製作があり、そこから物の形が生れるということは宇宙が自己を実現したということである。そして宇宙はそれを人間が手や言葉をもつものとして実現したのである。表現としての製作は人類が内なるものを表わすのであり、人類は宇宙が内なるものを現わしたものである、断るものとして表現は何処迄も宇宙の内に入ってゆくものであると共に、製作するものとして人間は我と汝が映し合うものとなるのである、我と汝が映し合うとは、人類は最も深い宇宙の姿として、宇宙が宇宙の中に宇宙を見るということである。宇宙の実現者としてわれわれは全存在の一を自己に見るのである。

 映し合うことによってあるとはその一々が全存在であるということである。それは相互補足的なのではない、相互補足的なるところに映し合うということはない、全体の部分なのではない、全体の部分であるところに映し合うということはない、而してそれは同一と いうことではない、同一なるところにも映し合うということはない。一々の個が宇宙としての自己を表現したものとして形相を異にしつつ、宇宙がそこに自己を見たものとして全一である。製作するものも、製作されたものもそこに一々が完結をもつのである。完結をもつとは全一者の実現であるということである。最初に微塵の一々が宇宙の中心であると書いた、中心として個は一々が宇宙を映すのである、個の一々が宇宙を映すところに宇宙はあるのである。我と汝も個として宇宙を映し合うのである。映し合うところに宇宙は現前するのである。

 我と汝が映し合うところは言葉である、言葉を作った人はないと言われる、言葉は我と汝が世界形成的に出会うところより生れるのである。而して誰の言葉でもない言葉はない、私の言葉を他者は語ることが出来ない、常に語る人その人の言葉である。ということは我も汝も言葉も形成的世界に於て出会うというところにあるのでなければならない。宇宙が自己の中に自己を見てゆくというところにあるのでなければならない、そこに自分の言葉は他者が語ることが出来ないということは、宇宙はこの我に映されるのであり、この我に映すことなくして宇宙はないということでなければならない、而してそれは対話に於て映し映されるところに現前するのである。対話のないところに我の言葉も汝の言葉もない、対話に於て宇宙が現前し、我と汝が現前するということは宇宙が全一者として自己の中に自己を見るということである。

 我の言葉を他者が語ることが出来ないということは、我と汝は対立するものであるということである、言葉を作った人がないとは、言葉は生命発生以来の無限の形成の結果としてあるということである。無数の人が呼び応えることによって作ったということである。釈迦もソクラテスもその中に現われた一人ということである、われわれもその中の一人として言葉をもつのである。その中の一人として言葉をもつことによって世界を内にもつものとなるのである。世界を超えて世界を包むものとなるのである、そこに対話として映し映されるのである。映し映されるものは全てが世界の中にありつつ、世界を超えて世界を包むものとして世界は自己を形成してゆくのである。この我に現れた以外に世界はない、そこに独我論の出で来る所以があると共に、この世界は対話によってあるのである。斯かるものとして自己が世界を包み、世界を内に見るというところに唯一者があり、自己が世界の中の一人というに多を見るのであるとおもう、このわれがあるということは一即多、多即一としてあるということなのである、そしてそれが映し映されるものとして世界の存在の形なのである。そこにわれわれは自己を転ずるのである。一々の行履は宇宙が創世以来自己の中に自己を見て来たものとして確固不抜の自己を見ると共に、宇宙の動転の一塵として一朝の露命のはかなさを嘆くものとなるのである。そして一瞬一瞬の営為の織りなす生命の風光に神の姿を見、その充足に生きるものとなるのである。

長谷川利春「自覚的形成」