リズムについて

 芸術を語る時によくそのもののもつリズムが言われる。リズムとは如何なるものであろうか。私自身判っているようで曖昧である。以下私自身に明らかにする意味に於いて考えて見たいと思う。

 生命は形をもつ。形をもつ生命がそれ自身によって動くのが動物である。動くとは、抵抗を克服するものとして飛躍的である。静と動の反復を繰り返す。私はそれがリズムの原型であると思う。例えば我々が歩く時に一方の足を出し、一旦下ろして大地の抵抗を克服してもう一方の足を出す。それを繰り返すことよって我々は動く。それがリズムの基本的なものであると思う。ぼうふらも尺取虫も斯る意味に於いてリズムをもつ。

 生命の動きは機能の複雑化に随って多様化する。ぼうふらは唯上下するのみである。

 尺取虫は屈進するのみである。蛙は歩み、跳び、鳴く。哺乳動物に至って快、不快の 表出をもつ。犬は見れないものに吠え、見狎れたものに尾を振る。軽い噛み合いの 戯れをなす。雌犬を見てはまっしぐらに走り出す。馬の疾駆は軽快である。而しそれ 等の動きは尚芸術のリズムではない。身体として与えられたものの直接の表出である。私はそれが芸術としてのリズムとなる為には自覚的、表現的とならなければならないと思う。身体の動作が芸術的リズムとなる場合にも、身体が身体を超えて、より大なるものを表すものとして、身体の外化がなければならないと思う。

 人間は自己を外に見る事によって自己を知る。外に見るとは物を作るという事である。物を作るという事は技術的ということである。手をもつことによって人間になったと言われる如く、我々は技術をもつ事によって自己を知るのである。物を作る事によって我々の動きは無限に複雑、多様となる。無限とは一つの物の形が次の形を呼ぶということである。技術が技術を生んでゆくことである。内面的発展をもつという事である。働くとは断るものを内包する人間の行為である。而し物を作ることは未だ芸術的創作でなければ、作られたものは芸術品ではない。私はそれが芸術の創作生命と なるには技術の根底に還り、作るもの自身を表現しなければならないと思う。

 一つの石を割って物を切る道具、戦う道具を作った時に人類の曙はあったといわれる。而しそれが何時、何処で始まったか知る由もない。技術ははかる事の出来ない過 去より営々として人類が自然と闘い、人間同志が戦った歴史の集積である。私達は先代より技術を習得した。先代はその先代、その先代とさかのぼって尽きる事を知ら ないものである。その技術の集積が世界であり、我々は技術をもつ事によって世界に 参加し、自己となるのである。私達は生まれて死ぬ。而し私達があるとはこの生死を 超えたはかる事の出来ない時間を内にもつことによって我となるのである。作られた 物は生死する我の生存の用に供する。その限り物は芸術品ではない。而し物は永遠なるものの働きより出で来ったものとして永遠の影をもつ、如何なる物の形も無限の過去より来り、無限の未来を呼ぶものとしての一面をもつ。私は我々が更に深い自覚として単に生死する我の用に供するのみでなく、永遠の面の純化に生きんとする時に我々の生命の働きは芸術を生むのであると思う。美のリズムとは永遠なるものに摂取された生命の自己実現であると思う。

 神の出生は生産に関わると言われる。神の超越は技術的形成の超越である。神の深さは技術のはかる事の出来ない時間の深さである。斯る意味に於いて芸術は神の顔を見んとする処より生まれたと言い得ると思う。弦楽は弓の弦を鳴らして軍神に味方の勝利を祈った事に始まると言われる。雨を乞うて蛙のしぐさを、猿や鹿の食害に対して追い払うしぐさを、戦に出でんとして敵を倒すしぐさを演ずるのが舞踊や演戯の始まりであると言われる。古代印度の詩の初まりは神に真の徳性を附与せんとするにあったと言われる。日本に於いても酒作りには酒作りの歌、田植には田植の歌が唄われた。そして田植も酒作りも神の行為であり、歌は神の言葉であった。私はこの神とは生死するこの我を超えて、我々がそれによってある技術的創造の世界の形象化であると思うものである。単に猿や鹿の真似をするのではない。生産活動のもつ時間の深さを介して人間の身体が持つ動き以上の動きをもつのである。唄うとは単に声が出たというのではない。稲作りなら稲作りの、無限の時間が生んだ言葉なのである。それ等は生存の用に供するものではない。時を超え、時を包むものが自己を現した姿である。人間の自覚とはこの深さに於いての自覚である。自覚は世界形成的である。私はこの動きが、世界の自己表現の動きがこの我の表現となる時芸術のリズムはあると思うものである。

 而し超越者が超越者である限り尚真の芸術はあり得ない。我々が近代的自覚という のは超越的なるものが内在的であるということである。我々の生死を超えた時間の深 さが直にこの我であるの自覚である。この我がそれによってあるとは、この我がそれをあらわにしてゆくことの自覚である。世界創造を神の手より、人間の手へと移らしめたのである。我々は神の僕ではなくして自由意志となったのである。超越的なるものが内在的なものであるとは、身体の有限性を超えた時間の深奥を我の内面として外 の形にあらわさんとする事である。我々の身体は単に生死する身体ではなくしてこの 深奥が働く身体であるの自覚である。私はこれは神の放逐を意味するのではなくして、我々が真の自己となることは神が真の神となった事であると思う。

 近代的自覚は表現に無限に変化を与えたという事が出来る。神の慈愛と威厳を表す のみではなくして、隣人の哀しげな目も永遠なるものの表象となった。人間の身体に無限の時間の形が見られた。裸体は最も美しいものの一つとなった。それは宇宙創 造の到達点として、宇宙創造の出発点としてあらわにすべきものとなった。亦我々の目の真実は何かということから新しい色彩、新しい線が作り出された。近代芸術は視覚の無限なる内面的発展であるということが出来る。視覚が無限なる創造的時間を 負うものとして、色彩が色彩を呼び、形が形を作るのである。自己を真実存在として 限りなく自己の深奥に還りゆく目となるのである。近代芸術のリズムとはこの内面的 発展のリズムであるということが出来ると思う。そして私はここにリズムの自覚があると思う

 本来技術は内面的発展的である。一つの技術が次の技術を生む。其処に技術の体系があり、知識が生まれる。唯それが我々の有限性を超えた時間の形相として成立つが故に、我として見る事が出来なかったのである。視覚の内面的発展とは斯る創造者の目となることである。近代的自覚の自己の発見とか、神の否定とかの根底に技術としての生命の自己創造の必然があるのである。内面的発展をもつ目とは、永遠の時の目となって働くことである。私は前にリズムが芸術的となるためには自覚的、表現的とならなければならないといった。それが内面的発展である。感覚の内容に、感覚をもつ身体の有限性を超えたものを見てゆくことである。感覚の内容自身が宇宙的生命の創造の内容としてあるものを、我々がより多様なる内容として作る事である。

 自覚に於いて外に自己を見てゆくとは、作るものとしての内をもつことである。働くものは内となり、作られたものは外となるのである。斯るものとして外を作ることは亦内を作ることである。外に無限の形を見てゆくことは、内に無限の感性を養ってゆくことである。深大なる情緒を生んでゆくことである。芸術的リズムとは形を生んでゆくこの情緒の抑揚である。我々は美術館に於いて近代作品に接する時、最早我々の感性より遊離してしまったかと思われる。而し遊離から表現は生まれて来ない。技術的展開としての、歴史的現在の感性の表現なるが故に我々の足を運ばせるのである。我々は我の心情に於いて作品を見るのではなく、作品に於いて我の心情を見るのでなければならない。我々は深く世界によってあるのである。

 私は初めにリズムは静と動の反復であると言った。そして生命の機能の複雑化と共 にリズムは多様化するといった。そしてその自覚的創造的なるところに芸術のリズム はあると言った。生命は形を持つものが動くものとして、空間的、時間的である。静として空間的であり、動として時間的である。時間と空間は相反するものである。間の否定として時間はあり、時間の否定として空間はある。動は静の否定であり、静は動の否定である。而して、動は静を含み、静は動を含む処に生きている生命があるのである。私は斯かるものの自覚としてその動的方向、静的方向に様々のリズムを見る 事が出来、様々の芸術の形態を見る事が出来ると思う。私に音楽を語る資格はない、音楽はその形の自由なる流動に於いて動的方向の極みにあるものと思う。声楽、舞踊の如きはその身体的の所与性に於いて制約される故に、音楽の如く純であるとは言えないが矢張り動的なるものと言い得るであろう。それに対して建築の如きはその実用性に於いて変化を拒否する。建築の美は静的なるリズムをもつと思う。陶器はその可塑性に於いて建築より自由である。而しそれは矢張り静的なるリズムの美であると思う。絵画、彫刻は客観的対象を写す、其の静、動は多くその民族に特性に関わるように思う。其の時代に関わるように思う。

 西田幾多郎博士は、リズムそのもの程、我々の自己そのものを表すものはない。リ ズムは我々の生命の本質だと言ってよいといわれる。リズムは生命の直接なるものであると思う。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」