ディモンの声

 北播短歌会の帰途、内藤先生の宅で皆と別れて藤木千恵子さんと、松尾さんの車に乗せてもらい小野に向かった。途中何ういう事からであったか忘れたが、話が浮気に移った。藤木さんは「浮気なんかする人の心が分からない。私は浮気をしようとも思わなければ、絶対にしない。」と例の強い調子で言われた。私は「そう思う事は大変良い事だ。而し果してそう言い切れるのであろうか。言い切るには人間は余りにも弱いもののように思う。絶えずそう自分に言い聞かす事によって、辛うじて支えているような危ういものを持っているように思う。」と言った。藤木さんは更に「言い切れる。」 と語気を強めて言われた。私は話乍ら淫乱と言われた高橋お伝を考え、ソクラテスのディモンの声に思いを致していた。

 畏友石井さんに聞いた話であるが、東京大学の医学室に、高橋お伝の陰部のホルマリン漬があるそうである。そしてそれは普通の日本人の標準より少し大きいそうである。私はそういう方面に対する知識がなく、言うべき資格がないが、若しもその大きさと淫乱と関係があるのであれば、お伝は先天的に与えられた何うしようもない生命に動かされたと言う事が出来る。ディモンの声を聞くと言うのは高く深いものであろう。お伝は勿論ディモンの声を聞く事は出来なかった。而し彼女は自己のディモンに動かされたと言う事が出来ると思う。私達の底には限りなく深いものがあるように思う。私達は自己を知る。而し何故に自己を知るかを知らない。何故に住吉町に生まれたかも、何故に男に生まれたかも知らない。唯生まれた如く生きるのみである。それは私達が凝固して生まれて来る混沌とでも言うべきものである。中勘助の詩に、掏摸(すり)の習癖のある少女が何とかその習癖を直そうと、お宮さんに願をかけて毎日詣でた。その満願の日に家に帰って着物を脱ぐと、中から掏り盗ったものが出て来た。その日に彼女は首を吊って死んだと言うのがあった。或はこれは事実ではなかったかも知れない。中勘助の内に生まれた生命の形象であったかも知れない。而し私達は自己の意志を超えるものの存在を否む事が出来ないように思う。芥川竜之介の地獄変の、殺されている自分の娘を見ている画家の苦痛の目から、恍惚の目への変化もこの混沌より衝き上げて来る力であると思わざるを得ない。我々が生まれ来った如く、天才も生まれて来るのである。天才は努力であるとよく言われる。天才は努力すべく生まれるのである。全てが混沌の中から生まれるのであると思う。

 それは宇宙的意志とでも言うべきものであり、斯る宇宙的意志の動転として我々は あると思う。

 私は親鸞の悪人正機を悪人の自我性から考えて来た。而し自我からは何うしても悪 人救済は出て来ない。親鸞の根底には深く斯る混沌への目があったのではないかと思う。宿命とでも言うべきものを背負って生きていく人間があったのではないかと思う。此処に於いて人間は絶対の零である。絶対の無力である。全ての人間が己の何うしようも無い世界から生まれ乍ら、或る者だけがこの世界から背き、世界からはみ出す時、最も涙すべきは悪人でなければならない。救われるとは何か、自己の存在の根元に至る事によって自己を完結する事である。何うしようもないものが、何うしようもないと知る時、我々は自己を完結するのである。何うしようもないものとしてある時、宇宙的意志の内容として、神の御旨のままとなるのである。この何うしようもない自己への知は、悪を媒介として生まれるのである。善は何うしようもないものではない。悪のみが何うしようもないものである。其処に悪人正機があったと思う。歎異抄は名の如く異を歎くものであろう。異とは正に対する異であろう。善に対する悪であり、真に対する謬であり、美に対する醜であろう。それは自己によって転じ得るものではなくして、唯歎き得るのみのものであろう。そしてこの歎く事が弥陀本願へ転入する門となるのである。時空を絶したものの中に摂取されるのである。其処は全き自己放棄である。永遠の声に随うのみである。地獄かも知れない。唯自己のはからいを捨てて、救済を信じていくのみの道である。

 私達が知らざるいのちに衝き動かされて、この世界を展開する時、世界はこの宇宙的意志とも言うべきものの実現としてあるのでなければならない。それは我々の自覚を超えてあり、我々の自覚が何処迄も深くなってゆくのは、斯る超越的生命が自己自身を見るものとして我々は其の内容としてあるが故に外ならないと思う。全人類一として我々の自覚はある。人間は自覚的に働きつつ、宇宙的生命の内容として、自己の底に重々無限の不可知者をもつのである。見る者として、見る事の出来ない深淵をもつのである。我々は自己の目のとどき得ない暗黒の混沌をもつ。而してこの混沌は無限に自己を見てゆくものであり、働くものである。これが我々のディモンである。而して見るもの、働くものとしてそれは絶対の明白でなければならない。怖るべき暗黒の混沌が、形として見られる時それは最も大なる光明となるのである。光明とは自己の姿を最も明らかに見せてくれるものである。自己を最も明らかに見せてくれるものは、この混沌の自己実現としての形相である。大なる意志が実現する時、衝動として我々を動かして来た暗きディモンは、この我を超えた根元なるものの相として善に転ずるのである。我々が働くとは、それぞれ自己を超えた、自己の知らざる生命として働く。ディモンはそれぞれがもつ。而しディモンの声は超えたる者が唯一者として、それぞれを自己の内容とするものとして聞こえて来るのである。ソクラテスはディモ ンの声を聞く事によって善なる意志に至り、霊魂の指導者なる事を確信した。キリストの神も、佛陀の大悟も己の根元的存在への逢着であった。キリストの権威ある声も、ソクラテスの静かなる死も、この根元的存在者につながる事によってあり得たと思う。それは超越者の言葉による現われであり、光明である。ともあれ矛盾撞着のこの世は、翻って見れば宇宙的意志としての神の自己実現の世界である。この我が絶対の無である時全てのものは一つである。絶対の無に於いて絶対の有に転ずるのである。弥陀の本願は歎きの中に住むのである。

 すべて生あるものは己のディモンをもつ。而しディモンの声を聞き得るものは人間のみである

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」