コーヒーを飲みながら

 坂田書店の主人が珍らしくコーヒーを飲みましょうかと言われた。近くのコーヒー店に 行って、氏の郷土の中世史の膨大なる資料をまとめることが出来ない嘆きなどを聞いていると、御父君の坂田三郎氏が入って来られ、私の顔を見られて近寄って来られ、「長谷川さん貴方の短歌をよく拝見しています」との事であった。私が「この頃短歌から少し離れたいと思っているのですが、何分この夏は暑かったので読書を止めて、八月に六百首ばかり作りました」と言うと、「ほうそれは大変な数ですなあ、私も年に一、二首作るのですがどうしてそんなに作れるのですか」と言われた。私は「物を見て言葉にするというのは、言葉が物を見ているのです。ですから物に触れて出て来た言葉を、歌の形式に紡いでゆくのです」と言った。それから暫く描いておられる洋画のことなど話されて帰られた。私はコーヒーを飲み乍ら、言ったことの如何に説明不充分であるかに気がついた。そして如何に説明すべきであったかを考えた。

 コーヒーを飲んでいるのは舌のよろこびである。全て食物は身体を養うために食べる。その感覚として身体は味覚をもつ。舌のよろこびは味覚の充足である。人間は自然に与えられたものを食べるのではなくして調理して食べる。調理は材料を人間の身体に適合さすと共に、美味なるものの追究である。舌は更なるよろこびを求めて味覚の陰翳を無限に作り出す。全てものがあるとは自然として、与えられたものとしてあるのではない。作られたものとして、よろこびの陰翳をもつものとしてあるのである。コーヒー豆はコーヒーの材料として物なのである。坂田三郎氏は洋画を描かれる。そのとき色彩は目のよろこびである。私達はこのいのちのよろこびに導かれて、限りなく深い世界に歩みを入れてゆくのである。

 人間のみが言語中枢をもつと言われる。人間のみが言葉をもつのである。言葉は無限の過去を伝承し、無限の未来へ伝達する。初めと終りを結ぶ生命に於て言葉はある。言葉によって人間は人間となったのである。言葉は言語中枢のよろこびである。言語中枢のよろこびに導かれて、言葉は無限に自己を構築してゆくのである。斯るよろこびは何処から来るのであろうか。

 味覚のよろこびを作る調理人は自分の食物を作るのではない。他人のよろこびを作るのである。今は亡き母などもよく「食べてくれる者がいるから美味しいものを作るが、自分一人だったら何ででもすます」と食事作りの事を言っていた。病人の為に殿様のために昔の人は美味しいものを作って来たのである。舌のよろこびとは人と人との関り合いの翳を宿すことによって生れて来たものである。絵画が目のよろこびであるのも同様であるとおもう。若し見る人がなかったら、無限の他者に繋ることがなかったなら、描く意欲は何処から湧いて来るであろうか。而して描くということは、過去の画家の目を自己の目とすることによってあり得るものである。

 言葉は直に他者との関りに於てあるものである。言葉の本来は対話である。一瞬一瞬の関りが永遠の翳を宿すのである。人間が作るよろこびは全て永遠なるものが自己自身を見てゆくより生れるのである。料理も絵画も人類の内容として無限の展開をもつのであり、作るよろこび、出来たよろこびがあるのである。言葉は直に他者に関り、永遠の顕現として全てのよろこびの根底にあるということが出来る。言語中枢が人間のみにあるとは、全て人間的なるものは言語を媒介としてあるということである。料理も絵画も言葉によって見出されたものを写す意味があるのであるとおもう。

 作るとは無限の過去と未来が現在として一つであることであり、瞬間的なるものが永遠なるものであることである。瞬間的なるものが永遠なるものであるとは、言葉によって表わされたものであるということである。前にも書いた如く物は作られたものとして物であり、作られたものは名をもったものである。我々は言葉をもつことによって技術をもち、製作的自己となったのである。作られたものとは我々の生命を宿すものであり、生命を宿すものとして物は無限の発展を孕むのである。斯る生命がはたらく言葉である。はたらく生命がそこに自己を見るとき、物は物となるのである。

 既に書いた如く物は我と汝の関りより生れる。はたらくとは無数の人々のかかわりである。無数の人々の関りとして物を作ることは世界を作ることである。世界を作るものとしそれは歴史的形成である。全て技術は時の蓄積として、物は時の影を宿すことによって物である。無数の人の関りとして、物は歴史の内容として物である。而して人と人との関りあらしめるものが言葉である。

 人間生命の表れとして、言葉によって見出され物はその内包する言葉によって、更に大なる生命の表れへの呼びかけをもつ。物が無限の発展をもつとは、言葉を宿すものとして、主体への呼びかけをもつということである。そこに主体と客体、物と人間が分れる。人間が物を作ると共に、物は人間に作るべく命令し来るのである。物と言葉は乖離するとともに、物は既に言葉を宿すものとして次の言葉を拒否するものとなる。人間は関り合いの対立と否定からより大なる言葉を実現せんとする。斯る対抗緊張の中に於て物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくのである。ここに世界は個々の生命を翻弄する自己自身の発展をもつと共に、我々の自己は真の自己となり、物は真の物となるのである。

 短歌とは斯る対立として対抗緊張する世界を言葉の方向に突抜けて、一の相下に表わさんとしたものである。物が言葉を宿すことによって物となるとは、言葉は物を宿すことによって言葉となるということである。言葉が物を宿すとは、我と汝の関り合いの中に物を宿すことである。物をよろこびかなしみの襞に於て見ることである。物は生命を宿すことによって物でありつつ、宿すものとして逆に生命に対立する。それを純一なる生命に捉え直すのが短歌の表現である。よろこびかなしみは生命の純なる表れである。

 物が言葉を生み、言葉が物を生んでゆくとは物と言葉が混融することではない。物は愈々物となり、言葉は愈々言葉を明らかにしてゆくことである。物は物の内面的発展をもち、言葉は言葉の内面的発展をもつものとなるのである。斯るものの一つの表れとして情感による言葉の内面的発展が短歌の表現である。内面的発展とは一つの情感による言語的表現が、次の言語的表現を生んでゆくことである。物を宿すものとしての言語の情感的発展である。物を宿すものとしてそれは世界の言表である。

 言葉は対話である。短歌を作るということも亦、無数の歌人の創作との対話である。歌を作るものはうるしの紅葉を見るとき、先人のうたった感動に於て見るのである。その感動に於て見るとき、紅葉はいよいよ赤いのである。私はそれを言葉が見るというのである。言葉がいよいよ明らかとなり、物がいよいよ明らかとなるという所以である。

 他者の言葉は私の言葉ではない。他者の作った短歌は私の短歌ではない。言葉によって見るとは、他者の感動がはたらきつつ今この我が当面する事実を如何に言表するかということである。他者の呼び声と我の応えはこの異なった状況を介して成立するのである。異なった状況は、異った言葉とスタイルを要求する。他者の作品の言葉とスタイルから、その状況に応じた言葉とスタイルを見出すのが対話であり創作である。他者の無数の作品を自分の目として、言葉とスタイルを設定するのが直観である。それは物が宿す言葉と、言葉が宿す物との対話である。

 興に乗るという言葉がある。創造的直観が自由にはたらき出したということである。短 歌に於ては行往坐臥、言葉が物となり、物が言葉になるということである。あるもの全てが言葉の相をもち、ものに触れて言葉が表われることである。故に私は多く作ったから内容が悪いと思っていない。

長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」