はじめに言葉ありき

 「細胞から生命が見える」という本によると、すべての細胞が個有の生命プログラムとしてのDNAという遺伝物質をもち、そこに生物が生きてゆく上で必要な情報が書きこまれている。細胞一個の中にある全DNAの文字数は非常に多い。生物種によって異なるが、数百万から数百億文字以上に迄達する。この全文字が遺伝情報の全てである。ヒトではざっと三十億文字のDNA情報が一個の細胞の中にある。その量はどれ位かというと平凡社の大百科事典の二十五セット分である、と書かれている。生命は必要に応じてこのプログラムを利用するのである。細胞が遺伝子をもち、遺伝子が文字をもち、細胞がそれを利用し、その指令によって動くとは、文字は生命の形成として、生命そのものとしてあるということである。生命としての細胞が形として出現するものであるとき、形は文字によってあるものとして文字は細胞であり、細胞は文字である、そこに形成ということがあり、出現ということがあるのである。私は生命としての細胞の形は、外としての環境との関りに於て如何なる文字を撰択したかにあるとおもう。生物の進化とは文字の構成の複雑化ということであろう。私は単細胞動物より多細胞動物への発展は環境に対す主体としての文字の高度化の要請があり、文字が細胞の自己形成の撰択をもったのではないかとおもう。利用するとは細胞が自己を現わすことであり、現われた細胞が更に外との関りに於て利用せんとするのである。それが撰択であり、構成である。私は三十億の文字をもつとは単に並立的にあるのではなくして構成的にあるのであるとおもう。一つの生命としての細胞を環境との関りに於てより強く、より大ならしめんとするところにあったとおもう。人類は近々千万年程前に出現したと言われる、千万年程前に出現したということは、それ以前の生命体の細胞は三十億の文字をもっていなかったということであろう。文字は常に外との関りに於て分化発展をもったのであるとおもう。私は如何にして単細胞動物が多細胞動物となったかを知らない。唯外としての環境の激変が細胞の結合による機能の発展を要求したのかとおもうのみである。併し細胞は多細胞となることによって多様なる機能をもつことが出来たとおもう、そして多様なる機能は文字の数を増大せしめたとおもう。多細胞と なることなくして人類の生誕はあり得なかったのではあるまいか、而して多細胞ならしめたものは文字のはたらきであったとおもう。生命がはたらくとは文字がはたらくのであるとおもう。

私は人間生命を自覚的生命として捉えんとするものである、自覚とは自己の中に自己を見るものである。生命は外を内とし、内を外とする無限の形成である。自己の中に自己を見るとは外を内とし、内を外とすることであり、外は内を宿した外、内は外を宿した内となることである、外は内を宿して物となり、内は外を変革するものとして技術をもつものとなるとなるのである。自覚とは世界形成的に生命が形象を顕現させてゆくことである。われわれが自覚をこのわれに於て見るのははたらくものとしてこのわれに世界の出現を見るによるのである、それが物を作るということである。私達は物を作ることによって自己を知り、更に大なる物を作らんとして自覚の意識をもつのである。私は斯る物の製作を経験の蓄積に求めるものである。経験の蓄積とは昨日と今日、過去と現在の営為を統一するものである。われわれは生れ来ったものとして自然の内容である。営むとは自然の循環に随って営むのである、それが日日の行為である、営みは日日の繰り返しである、而して状況はその日その日異るのである、その日その日はくり返しつつ新しい営みの日である。私は斯る日日の異なる状況を生命形成に於て統一するところに製作があるとおもう。例えば大古の採取経済に於ては、食糧に出合うということはその日その日の偶然であった。実の成る木を知っていたとしても、風で落ちてしまったかも知れないし、誰かが先に採ってしまったかも知れない、それを自己の管理の出来る所に植えて偶然を克服するのが製作することである。それに水をやり、肥料を与えるのも経験の蓄積である。野生の収穫物と区別してわれわれはこれを作物とするのである。製作とは偶然を必然とすることであり、外を 映すものとしての身体の秩序に逆に従わせることである。そこに経験の蓄積が必要なので ある。日日の営みの上に製作は成立するのである。私達は斯る経験の蓄積を記憶にもつ、記憶を保持するものは言葉である。われわれは記憶を言葉にもつのである。私はわれわれの斯る言葉をあらしめるものは細胞のもつ三十億の文字であるとおもう。

 記憶によって製作があるということは、製作によって記憶があるということである。 字は細胞の機能の指令としてあった、それは細胞が自己形成的としてあり、文字が形成を担うということである、文字が細胞と別にあって、その形成を指令するというのではない、細胞は自己形成的生命として文字をもったのである。それは外を内とするはたらきの必然の内容としてもったのである。而して外を内とすることは、内を外とすることとして無限のはたらきである。外を内とならしめることは外の多様に於て機能を大ならしめるものである、大なる機能に於て摂取した内を外ならしめることは機管を複雑ならしめることである。それは細胞の進化であると同時に文字の発展であるとおもう。細胞は多様の統一とし文字の発展をもつのであり、文字が発展をもつことによって細胞は多様の統一をもつのである。私は記憶とは細胞が必要に応じて文字を利用するのみではなく、文字の指令が状況を超えて状況を創造するようになったことであるとおもう。必要に応じて利用することは適応することである、而して適応することは既に主体が環境を作り、環境が主体を作ることである。創造するとはそれが発展して互が超越し合い対立するものとなったのである。対立するとは否定しあうものとして在るということである、対立するものが一つとしてあったものが顕在化したということである。生命に於て主体と環境が直に一としてあった、それが否定的に対立するということは死を以って距たるということである。環境は直に我であり、我は直に環境であったものが、環境ならざる我としてあり、我ならざるものとしての環境となったということである。勿論それは主体と環境が無関係になったということではない、主体が環境を内にもち、環境が主体を内にもつものとなったのである。環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となり、主体は環境の中に消えて現われることによって真に主体となるものとなったのである。私はそこに製作があるとおもう。われわれは製作したものを物としてそれを使用し消費することによって生きる、それは自然としての環境ではない、環境としての外が主体としての身体の秩序に随って変革され、構成されたものである。自然としての環境は社会としての環境となるのである、そこに環境は主体の中に消えて現われることによって真に環境となるという所以があるのである。 環境が主体の中に消えて物となって現われる為には、主体は環境の中に消えて人格として現われなければならないとおもう。斯くして外に物としての世界が現れ、内に世界を作るものとしてのこのわれが現われることが自覚することである。

 自覚は経験の蓄積として、時の統一として成立する。時の統一とは過去、現在、未来を内にもつことである。それは記憶に見た如く言葉がはたらくということである。それは三十億の文字が必要に応じて起用され、指令するものとして、生命としての細胞が現在の営為に言葉として顕現したものであるとおもう。人間は生命発生以来三十八億年の歳月の上に、六十兆の細胞の統一体として出現したと言われる。私はそれを作り上げたのは細胞の文字がはたらいたということであるとおもう。生命が細胞としてあり、生命が形成としてあるということは、生命はその根源として文字としてあるということである。それが外と内とが対立し、内が外をもつものとして、人格として対立するとき、内は主体として我と汝として対立するものとなり、我と汝は共に世界を内にもつものとして、より大なる世界を構成するものとして呼び交すものとなるのである。人格として我と汝となるとは共に製作するものとして個性となることであり、我ならざるものとしての汝、汝ならざるものとしての我として、文字は形に出でて声となり、言葉となって形作るものとなるのである。聖書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき。と書かれている。全ての形は言葉より生れたというのである、私は断る言葉を細胞の文字に見ることが出来るとおもう。私達は人間として、人間の細胞のもつ文字に神を見ることが出来るとおもう。全ての形は細胞のもつ文字の発現としてあるのである、製作すらも文字が自己の中に自己を見る自己構成として現われたのであるとおもう。

 三十億の文字とは一体如何なるものであろうか、状況に応じ指令するものとは、人間の 遭遇するであろう一切のものに対応するものでなければならない、生命は生死するものである。呼吸し、摂食して維持し形作るということは、それを失なうということは死ぬことである。生命を維持し、形成することは我ならざるものを我とすることである。我ならざるものによって我があるとは常に死に対面しているということである。指令とは生命として斯る死を排除してゆくことでなければならない、死を排除するためにさまざまの防御をなさなければならない、それは新たな構造を作り上げることである。本書の中に「シグナルの伝達」という項目がある。その内容はとても複雑であって非力な私が理解し、自分の思考の軌道に乗せ得るものではない。併し外に応じて細胞が自己を変化させ、新たな状況に新たな構造をもって対応してゆくのがわかる。死を以って迫る外は常に異る、その都度細胞は三十億の文字の中から最善の生存を撰択してゆくのである。そして外を自己の形相に転じてゆくのである。私は千変万化の外を転じて自己の形相に転ずるものは外を内に包むものでなければならないとおもう。外を内とし、内を外として無限の転換をもち、外を転じたものを自己の形相とするものでなければならないとおもう。斯るものとして三十億の文字は外としての万象を写しつつ、現実の生の唯一形相を打てるものであるとおもう。内外相互転換の軸としてはたらくものである、それは三十八億の年月に於て外と内が作るのである、私達は無数の個性としてある、無数の個性としてあるとは、多数の人々が異なった環境と歴史を負うて生きているということである、それによって人は様々の生死転換としての体験をもつのである。対話はその体験を集積せしめるものである。私は曽って物の製作は経験の蓄積であると言った。そしてその蓄積は記憶として言葉によると言った。その言葉は対話を生み、対話より生れるものとして世界が世界を見、世界が世界を作ると ころより生れるのである。記憶も構想も、製作も世界が世界を作るものとして世界がもつのである。世界としての社会の対話が維持し創造するのである、記憶や想像をこのわれが もつと思うのは、われわれがそれを映すことによって働くが故である。そこに三十億の文字は世界が細胞に自己を見出でたという所以があるのである。細胞は生命として存在が自己を見る一つの核である。斯る核は対話的に自己を見るものとして無数の核に対するのである。対話するとは他者があるということである。そしてその他者とは言葉を有するものであるということである。それがはたらくものとして過去、現在、未来をもつということは無数の他者をもつということである。世界は斯るものの対話として自己を構成するのである。曽って西哲の言った如く「世界は至るところに中心をもつ周辺なき円である。としてあるのである。

 「はじめに言葉ありき」のはじめとは根源の意である、そこから全てが生れてくるとい うことである。それではその生むものは何処から生れたのであるか、それは言葉を絶したものである。唯内即外、外即内、一即多、多即一として出現したという他はない、それが生命としての細胞であり、そのあり方が言葉としてあるのであり、三十億の文字はそのありようが形成し来った相である。全ての人間のもつ現象が三十億の文字の現れであるとは、全てあるものは自己同一としあるということでなければならない。変ずるものは変ぜらるものの上にあるものとして、時間は同時存在の上に成立するのでなければならない。変ずるものは機に応じて利用した文字の現れであり、変ぜざるものは機に応じて現われる三十億の文字である。時間は絶えざる状況の変化に出現する形として無限の流れである。併し単に流れるものは時間ではない。時間は過去、現在、未来の一つの統一をもつものでなければならない。私は斯る統一は三十億の言葉の現れであり、言葉が自己を見、自己を現わすものとして初めて捉えることが出来るのであるとおもう。しからば斯る同時存在は如何に現われるのであるか、私は斯るものを一瞬一瞬の時の完結に於て捉えることが出来るとおもう。一瞬が全時間をもつのである、一瞬は無限の過去より無限の未来への流れの一点である。全時間をもつとは、斯る一点が逆に過去、現在、未来を内にもつことである。私は斯る一点をはたらく現在に見ることが出来るとおもう。はたらく現在とは生が死に対面して、三十億の言葉の中に利用し得るものを撰択し、死として迫ってくるものを逆に生に転ずることである。即ち製作としてはたらく一瞬一瞬である。一瞬一瞬の時が完結すると は、出現した物の形が完結することである。過去、現在、未来を包んだ永遠の形相をもつ ということである。根源の出現であるということである。根源の出現であるとは外と内、環境と主体として文字をあらしめるものが具体として実現したということである。全てが現在に流れ入り、現在より出でてゆくのである。そこに全時間があるのである。生と死を含み、生と死がこの刹那に現わした形というのは常に形の究竟であり、形の本質はそれ以外にないものとして完結をもつのである。三十億の文字は形の現われるべき全てである一瞬一瞬の形の現われは斯る根源が自己を現わした形として完結するのである。

 われわれの生活は日日に複合化され、合理化されて便利になってゆく、人はそれを進歩という。併しそのことは昨日は今日のためにあったということではない。昨日は昨日の生きる営みとしてあったのである。今日は今日の生きる務めとしてあるのである。各々死に面するかなしみと、それに打ち克つよろこびを一日の確証とするのである。三十億の文字がはたらくことによってある一日である。私はそれは唯人のみではなく物にも言い得るとおもう。土鍋は鉄鍋の未完成品ではない、何方も調理具としてそのときそのときの用を果して来たのである。生命の形成としての外と内を一に見るはたらきをして来たものである。完結とは外と内とが一としてあるということである。私はそれを武器にも見ることが出来るとおもう。那須の与一が壇の浦に扇の的を射るべく選ばれたときに、「頼光の時ならば 空飛ぶ鳥を、三羽に二羽は射ち落すものが多かった、今では波にゆれいるあの的を射ち落せるものはないであろう。と言ったという。そのことは弓矢も弓術も頼光以前に完成していたことであるとおもう。ランケは詩はホメロスを超えたということは出来ないという。私は刀剣は正宗を、剣術は塚原卜伝を超えたということは出来ないのではないかとおもう。それはそれよりよいとか悪いとか、上手とか下手であるというのではない。形は内なるものの結晶として、一つの完結として出現するとおもうのである。一々が生死としての外と内の転換として、三十億の言葉が自己を実現したとおもうのである、世界が現われたのである。現われたということは、現われたものの中に世界があるということである、そこに完結があるのである。

 対話とは斯る完結と完結との対話である、完結と完結の対話に於て新しい形が生れるのである。完結から新しい形が生れると言えば矛盾であるが、言葉は斯る矛盾としてあるのである。斯る矛盾は言葉が指令として発現し、発現によって自己を維持してゆくことによるのである。指令の文字の撰択は生死転換の危機に於てその生存を図るのである。生命が生存すべくはたらくいくつかの文字を撰択するのである。故にその文字は全文字がはたらくものとしてのいくつかの文字である。全文字がはたらくものとして現われた形は全存在を負う一つの形である。そこに一つの形が完結をもつ所以があるのである。完結とは全ての現象がそこに見られるということである。全て現われるものがそこにあるということである、全てあるものは死生転換に於て文字が形を表わしたものとしてあるということである。私は人間が歴史をもつというのも断るものを根源的形相として成立するのであるとおもう。歴史は時の形相として過去、現在、未来をもつ。それは一瞬の過去にもかえることの出来ない無限の流れである、併し単なる流れであるときには過去、現在、未来というものを見ることは出来ない。単なる一点があるのみである、それが無限の流れと言い得るためには何等かの意味に於て流れを統一するものがなければならない。過去、現在、未来を一に於て見るものがなければならない、無限の過去より未来への流れは断るものに於てのみ見ることが出来るのである。斯るものに於て見ることが出来るとは、統一するものが自己に於て自己を見るということでなければならない。私は斯る一者として無限の流れを自己の中に於て見るものを三十億の細胞の文字に見ることが出来るとおもう。流れるものは 必要に応じて指令を発し、それによって出現する形である。それは三十億の文字が自己の中に自己を見るということである。三十億の文字は個々の細胞がもつ、而して人間は六十兆の細胞をもつと言われる、個々の細胞がもつとは六十兆の細胞が各々持つことであり、地球上には六十億近い人が住むと言われる。この全ての人が細胞と文字をもつものとしてあるのである。生命に於て同じ形をもち、同じ営みをもつものは何等かの意味に於てつながりをもち、一を実現しているものであるとおもう。同じ形をもち、同数の文字を有する ということは、照らし合って形を実現してゆくものであるとおもう。そのことは生命は世 界の自己実現としてあるということであるとおもう。

 多くの生命は多細胞動物として多くの細胞の統一体である。統一体とは多くの細胞が一 つの目的的行動をもつことである。統一行動をもつためには指令は一つでなければならない。そこに神経が生れ、神経中枢が生れなければならない。各細胞に指令を発せしめる統一的指令が生れなければならない。併しこれ等の形が現われるというには、何もないところから現われることは出来ない。形が現われるには胚種とでもいうべきものがなければならない、私は細胞のもつ文字が斯る形の根源とおもうのである。根源とは、細胞の文字が自己自身を見、自己自身を構成するということである。私は多細胞ということすら細胞の文字が内外相互転換的にはたらくところに出現したのであるとおもう。そして多細胞となることによって自己構成的となり、多細胞の統一体としての身体は幾多の性能を獲得したのであるとおもう。獲得したとは文字の撰択によって身体が形をもつと共に、その身体がはたらくものとなることである。身体としての形がより大なる生命形成のために更なる新たな文字を撰ぶことである。私は人間の歴史も斯る生命形成としてあるとおもう。歴史は自覚的生命としてあり、自覚的生命とは内外相互転換の外を物の製作に見、内を製作的主体として見ることである。それがはたらくものとして一であるところに歴史があるのである。はたらくものとして一であるとは、先ずあらわれるのは一が現われることである。一が現われるとは内外が未た混沌としてあるということである。それは世界としてあらわれる。併しそれはわれに対しわれを包む世界ではない未分の世界である。外が食物として、敵として漸く識別の段階である。鯛は深海にあってわれわれの五千倍の明らかな視覚を有する、併し見るのは敵と餌だけであるといわれる。それは反射的行動として生に直接的なるものである、鯛は敵と餌による行動に於て身体を形成してゆくのである。身体形成とし 生命の純一なるはたらきである。細胞の文字は斯る形成に向って自己を撰択するのであるとおもう。言葉は斯る細胞の文字の自覚として先ずあったのは集団的形相の実現ということであったとおもう、生存としての斯る集団が血縁的であったか地縁的であったか浅学にして私は知らない。恐らく両者の綜合としてあったのであるとおもう。生命的一の実現として、最初に言葉をもつことによって見出した形相は集団の情緒的興奮であったとおもう、そして斯る興奮は敵との戦いや食料の獲得によってもたらされたのであるとおもう。私は言葉の発展もここにあったとおもう、人間は経験を蓄積するものとして集団の闘争は愈々複雑化してくる。戦術・兵器の複雑化は統率者、指導者と一般戦闘員を必然的に生むものであったとおもう、そこには戦術・兵器に関る言葉と共に、上意下達・下意上達の言葉が生れるのである。食料の獲得は更に深大である。生命は生命を食物とする、光合成によって植物が形成した細胞を、食物連鎖によって高次なる形相を実現してゆくのがわれわれ動物の生命形成である。光合成は太陽と水として天と地に関るものである。経験の蓄積とは斯る食料の生産を人間の手によって行い、食物連鎖を人間の手によってもとうとすることである。勿論人間は植物にかえることは出来ない、そこに植物の養育があるのである。食物連鎖として必要とするものの栽培があるのである。そこを基点として更に滋養に富む動物を飼育し、自己の食物連鎖の円環を完成せんとするのである。その為に人間は幾多の克服すべき障害に打当らなければならない。天の太陽と地の水によって育つ植物は先ず早魃と水害に打克たなければならない。そのために天の理、地の理に深く入ってゆかなけれ ばならない。われわれはそれを、われわれも細胞によって成る生命として、自己の根底に深く還ることによって成就してゆくのである。天や地はわれではない、併しそれは細胞の出で来ったところであり、生命の根源である。三十億の文字もそこからと考えられるものである。われわれの言葉や技術が細胞の文字に根源を有し、全てがそこよりの現われであるとき、われわれの自覚は先ず、細胞の文字に自己を見た天地が形相として現われなければならないとおもう、ということは混沌の中から先ず現われたのは根源的存在としての神でなければならないということである。そして神とは生命がそこから出でくるものとしての天地であったとおもう。そのことは歴史は神を見ることより初まったのであり、神の創造として歴史の展開があったということである。併し神の創造は歴史ではない。歴史は何処迄も人間の歴史である。そのために人間は何処かで神と離別しなければならない、神の創造を人間の内面的発展としなければならない。私はそれを細胞が必要に応じて文字を撰択し、利用するところに求めたいとおもう。そこから形が現れ言葉が生れるのである。形が現れ言葉が生れたということは、形が言葉をもち、言葉が形を生んだということである。形は生命の出現として発展の欲求をもつ、更に言葉をもたんとし、言葉は更に形を生まんとするのである。私はそこに人間を見たいとおもう、形の出現とは現在の状況に撰択された言葉が出現したということである。生命がそこに自己形成をもったことである。形成されたものが更に新しい言葉をもち、新しい形を生むということは自己を否定することである。否定するとは自己が自己でなくなることである。私は現われた形は、形を維持せんとすれ決して自己を否定しようとしないとおもう。併しそれは一つの状況に現われたものであり、外と内の転換として絶えず動く新たな状況に耐え得るものではないとおもう。私は斯く新たな形に転じてゆくには常に言葉や形の出で来った根源に還らなければならないとおもう。細胞の言葉に還らなければならないとおもう。三十億の文字の撰択と出現に俟たなければならないとおもう。ここに人間は人間は神と離別するのであるとおもう。現 われた言葉や形が人間である。それを現わすものとして根源の文字としてあるのが神である。そこに有限と無限、相対と絶対がある。昔仏像を彫る人は一刀毎に三拝して仏の示現を祈ったという。西洋にも美神という言葉がある。美の神に呼ばれ、招かれてわれわれの創作があるというのである。それは現われた形、現われた言葉からは新たなものは生れないということである。想を潜めて形の根源、言葉の根源にかえることによってのみ新たなものは生れるということである。私はそれはひとり芸術的創作にかかわるものではないとおもう。私の知り合いの技術者が、新しいものを作るために今迄の形を全部捨てて、幼児の心になってイメージの創出に努めなければならないといっていた。幼児の心とは如何なるものか知らないが、新しい状況に触れて細胞の文字の出す指令の如きものではないかとおもう。生命として身体と対象がおのずから生み出す形の如きではないかとおもう。よく発明・発見などでも寝食を忘れるということを聞く。私は人間をここに見ることが出来るとおもう。撰択として生れ、無限なるものの発現として生れ乍らその形相の故に無限の喪失者としてあるのが人間であるとおもう。神に還り、神の中に自己を殺すことによってのみ生を維持してゆくのである。生命の形として生れたものは形より形へ転ずることによってのみ自己を維持してゆくのである。身体の消耗と充足はその欲求である。形より形へ転ずることは常に自己否定をもつことであり、自己否定は自己を超えたものが自己にはたら くことによってのみあるのである。私は人間が斯くあるということは歴史が斯くあるとい うことであるとおもう。

 歴史は形より形へと転じてゆく人間の営みである、人間は自覚的生命として形より形への推移を物を製作することによってもつ、即ち人間は作ることによって形を見、その形か次の形を生んでゆくのである。私は斯る物の製作が根源的な文字のはたらきとして、物の製作と同時に神を見、神を祀り、神への祈りをもったとおもう。私は前に最初の言葉は敵に対したり、食糧の獲得にあったであろう、そこから様々のものが発展したと言った。斯かる言葉も亦根源的なる文字の現れとして、根源的なものが自己自身を見るところにあるのであり、敵対も摂食も消滅するものであるに対して根源的なるものは不変なるものであり、根源の不変なるものを表わすことが逆に変ずるものを現わすものとして形の最初は神を現わすことにあったとおもう。内的なるものが外に形をもったということは歴史が始まったということである。そして神を見たということは人間が自己をもったということである。私は歴史の始まった人間の意識は全て神につながったとおもう、神につながったとは行為は全て神を表象してゆくことである。根源的なものが自己を現してゆくときに形が現われるとき斯く考えざるを得ないとおもう。形を現わすものは三十億の文字がもつ普遍性に於てそこに住む人々である。住む人々が現われた形、現わした形に於て凝集するとき一体感として民族の原形が出来るのである。一つの神を見、一つの神を祀るとき民族の原型が出来るのである。現われた形は風土としての特殊な環境と主体が生死として否定し合うところに成立する形である。死を生に転ずるということは否定として迫ってくるを摂取するということである。私は判断が包摂判断であるのもここに由来するとおもう。対象に自己を映し、自己に対象を映すのである。対象に自己を映すとはこの我が世界となることであり、自己に対象を映すとは世界がこの我となることである。この我が世界となるとは物を作ることによって世界を作り、世界を見るものとなることである。世界がこの我となるとは、作ることは無数の人々の無限の時間の声に呼ばれてあるということである。そこに形が形を生む創造の世界があるのである。私はそこに人間の自覚が生れ、歴史がはじまったのであるとおもう。それは神より離れたのではない、神はかくれた神として底深 くはたらくものとなったのである。本来根源としての文字は状況により利用されるもので あった、それは生命が死に面して生を獲得すべく撰択するものであった。斯くして現われた形は根源的なるものの出現である、根源的なるものが自己を見出したものである。そこに形より形への無限のはたらきがあるのである。併しそれは文字の全容ではない、神の現在の状況への現れである。神は死して唯一現在に現前したのである。勿論神は死んだのではない、唯一現前したものより見て神は死んだのである。神の全容は現われたものに対してかくれたものとなったのである。現前したものが自己に生を見たとき神は死んだものとなったのである。私は現在に現われたものがわれわれが自己とする人間であるとおもう。そしてこの現われたものとかくれたる のの関係が人間と神の関係であるとおもう。前にも書いた如く現われた形は新しい形を生むものではない、常に変化する状況に対して現われた形は応ずる術を知らないものである。人間は常に自己の無力感の上に立つのである。生命は生きるものとしてそれを克服せんとする、そしてそれは危機に於て形相の出現を撰択する根源的なものに回帰するということでなければならない、かくれた神の呼び声を求めるということでなければならない。かくれた神はどこに言葉をもつのであるか、私はそれを我と汝の対話に求めたいとおもう。我と汝が対話するということは我ならざるもの、汝ならざるものとしての新たな形が生れることである。そして斯る言葉は我も汝も共に根源的文字を有するものとして、死として迫って来るものへの生への転換としてもつのであ る。斯る転換としての言葉をもつものとして対話するということは共通の死として迫ってくるものに面しているということである。そしてこの共通の死として迫ってくるものを生に転じてゆくのが世界である。世界は無数の個を抱いた無限の動転である、無限の動転として形無くして形をあらしめるものである。死と生を陰影とする無限の形を生むものであり、形より形へと転じてゆくものである。斯かる形は映したものが映され、映されたものが映すものとして過去を包み未来を開くのである。そこにかくれたるものの声があるのである。無力なるこのわれは過去を蔵し、未来を孕むものとなることによって新たないのちを得るのである。かくれたる神は形として出現したこのわれの内としてはたらくものとなるのfである。

 形より形へとは、形が無限に転じてゆくことである、今の形を否定して新たな形となる ことである。私達はこのわれとして身体の形として出現する、この形を除いてこのわれは ない。そこにこのわれとしての身体に執着する所以がある。このわれは斯る執着を排して新たな形に転じてのみ真個の自己となるのである。勿論転ずるといってもこの形がなくなるのではない、無くなるところに形より形へ転ずるということはない。新たな言葉に生きるものとなるのである。新たな言葉とは内を映した外を更に映すことである。我と汝の対話によって出現した世界を更に我と汝が映し合うのである。形が次の形を作るのである。身体が新たな状況に対応し、新たな状況をつくるものとなるのである。自覚的生命として人間が新たな形をもつとは新たな技術をもち、新たな世界を構成するということである。私は身体がかく何処迄も世界を宿すところにこの我の成立があり、歴史があるとおもう。三十億の文字は個々の細胞がもち、人間は六十兆の細胞の統一体である。三十億の文字は世界として外に展開せんとする多数である。身体の形として現われ、身体が細胞としての文字をもつということは身体に世界が現れるということである。斯る形としての身体に於て形より形へと転ずることが出来るのである、形より形へとは身体が世界を作るものとなることである。身体が世界を作るものとなるとはこの身体より全世界を見んとすることである。世界形成の意志として全世界を跪ずかせんとすることである。個と個が対するとは斯るものに於て対するのである、我と汝は相互否定的に対するのである。身体の否定とは死である。対するとは死をもって迫り合うことである、食物連鎖はその原型である、対話するとは断る個として対話するのである。我と汝はその底深く死の深淵をもって距てているのである。われわれは自覚的生命として経験の蓄積をもち、物を製作する生命として世界形成的に我と汝は一である。併しそれは斯る深淵を底にもつものである。形が転ずると は対立によって転ずるのである。対立によって転ずるとは対立することは対手の形を自己の中に帯びることである。形は対手を宿すものとして転じてゆくのである。生は死を宿し死は生を宿すのが生命が転じるということである。内外相互転換的に生が死を映し、死が生を映すということはより大なる外、より大なる内となるということである。そこに蓄積として形成があるのである。外はより大なる死として迫ってくるのであり、内はより大な生として向うのである。転ずるとはより大なる死と生が相即として形に実現するところにあるのである。それはより大なるものとして前の形を承けつつ生死を経たものとして前の形を否定したものである。私はそこに歴史が成立するとおもう。内なる主体は複雑なる技術を有するものとなり、外は多様なるものの統一となるのである。

 前に書いた如く一度出現した形は自己を保持しようとして変革を欲しない、変革のないところに形の転換はない。そこに形より形へ転ずるということはあり得ない。それなれば形の変転としての歴史の転換は何処より来るのであろうか、私はそれを天才や英雄に求めたいとおもう。形の転換は生死としての内外の相互否定にあった。転換とは外が危機として迫ってくるときに内が逆に外を自己とすることによって自己を大ならしめることである。そこには新しい技術が生れなければならない。それは物に即した技術ではなくして、主体と環境を相即せしめる技術である。私はそこに有事にはたらく根源的のはたらきがなければならないとおもう。それは世界形成の根源として、根源的文字より生れたわれがもつ言葉にはたらくのである。世界がはたらくのである。生命発生以来三十八億年の歳月に形成し来った生命が全時間の深さに於てはたらくのである。全ての人間は斯る時間の上に斯る時間を包蔵するものとして生れる。併し前にも書いた如く現われた自己としての形に捉われて我を超えた世界表象を表わすことが出来ないのである。現われたものを保持せんとして表わすものを見ることが出来ないのである。私は天才や英雄は直に根源的な文字を三十八億年の時間の深さに於て声として聞き得るものであるとおもう。それはこの我の欲求、このわれの苦悩として出でくる声ではない、世界の苦悩、世界の欲求として生れてく る声である。ここにあるわれの声ではない、このわれをあらしめる声である、あらしめるものとして絶対の声である。世界表象として世界の一を実現させるものである。世界の一を実現するとは、形として現われ個々の保持せんとする形が一つの世界として見ることが出来なくなったということであり、対話が持ち得なくなったことであり、その一を回復せんとすることである。故に英雄や天才がもつ表象は部分があって全体が構成されるのではない、先ず全体があって部分を見出してゆくのである。世界としてのイメージを現実としてゆくのである。浮んでくる世界のイメージは既存の世界ではない、それを実現せんとすることは既存の世界を破壊することである。破壊することによってのみ新しい世界は打樹てられるのである。而して新しいイメージは世界像として世界が自己の中に見出でた自己である。併し過去の世界はその世界に生きた多くの人々が背負うものである。過去の世界を形成した人々の理解し得ざる世界である。そこに天才や英雄の悲劇がある、世界を実現せんとすることはそれを構成する無数の人々をその内容とすることである。併し多くの人々はそれを理解しないのである、理解しないということとはそれ等の人々を葬るものとして新しい世界に敵対するということである。斯くして新しい世界表象の実現は時の熟するのを俟たなければならないのである。新しい世界表象は天才や英雄を介して世界が自己を表現せんとする衝動である、それは史的形成の必然としてあるものである。実現しなければ止まないものである。私はそのために新しい世界表象を自己とする新しい生命の誕生を待たなければならないとおもう。過去に生きた人が死んで新しい人の生れるのを待たなければならないとおもう。然も新旧の交代は単に人の交代によって得られるものではない、社会制度その他のものも旧世界を背負うものである。そこには多くの人がそこに働き生きるのである、そこには必然軋轢が生れなければならない。時代の変革には常に戦がつきまとった所以である。変革は常に幾度かの挫折の上に成立するのである。併し斯る変革は何もかもが変ってしまうのではない、いつも言うとおり創造的発展として変化するのである。 新しい生命の誕生といってもホモサピエンスとして、六十兆の細胞と百四十億の脳細胞を もった生命が生れるのである。それが地球上の同じ所に生れてくるのである。新しいというのは人間が製作的生命としてあり、主体は物を映して愈々複雑な技術の所有者となり、物は更に複雑な技術を映すものとして多様なる物となるということである。それは内が外を映し、外が外を映すものとして根源的な文字が指令として常にはたらき、はたらくことによって自己を見てゆくものとして一である。理性を神としたヘーゲルは、理性を直接性の超出、直接性の否定及びそれによる自己内部への復帰と言っている。経験の蓄積ということも根源的な文字が指令を出すことによって形をもち、形が危機として指令を求めるところに成立するのである。それによって生命の形が自己構成的なるところに蓄積があるのである。私はヘーゲルの理性も斯るものでなければならないとおもう。形が転ずるとは現われて消えてゆくことである。歴史の変遷は現われて消えゆくことである。斯く現われて消えてゆくことは全て根源としての文字より現れ、文字の中に消えゆくのである。現われるものは消えた中から現れ、消えゆくものは現われるものの中に消えゆくのである。全て現われたものは永遠の底に響きゆくのである。永遠の声をもつのである。そこに根源の文字としての変遷を成立せしめる同時があるのである。ここに生命の一々が自己完結をもつ所以があるのである。自己完結とは生命として自己より展開する無限の空間、無限の時間を自己の形相とすることである。現われて消ゆるものとして泡沫にも比すべきものでありつつ、そこに全生命を見るものであることである。そこに絶対に他ならざる個性がある。言葉をもつものとして一人一人が個性をもち、民族が個性をもち、時代が個性をもつ、斯るものとして声は時を超えて交し合うのである。

 全ての形が根源の文字より来ったとすれば、根源の文字は何処から来ったのであろうか、私はそれを形となるべき全てのものと考える他はないとおもう。近代科学によれば生命は物質より出で来ったという。私達は生命と物質を対立概念として峻別する。併しそこよりは生命の出で来った物質を考えることは出来ないとおもう。生命が出で来るには無限に他者に関り、他者を包み、関係と包摂に於て自己の形を現じてゆく、形なくしてはたらくものが考えられなければならないとおもう。そしてその本質は現われたものによって見てゆくべきものであるとおもう。現われたものは生命と物質である。現われたものが生命と物質であるとき、そこに自己を現わしたものは生命でもなく物質でもなく、物質が生命であり、生命が物質であるものでなければならない。自己自身を見る物質であり、物質を変革する生命である。私達の身体とは斯る意味をもったものであるとおもう。生命が物であり、物が生命であるところに身体があるとおもう。生命が物であり、物が生命であるとははたらくものである。はたらくことによって内に生命を見、外に物を見るのである。生命を内とし、外として見出されたのが宇宙であり、世界である。そこに宇宙や世界はこの身体が切り拓いて行った所以があるのである。そのことは赤身体は宇宙が自己自身を見るものとしてあるということである。私は三十億の細胞の言葉はそこより生れて来たのであるとおもう。宇宙は一つの動的なるものであり、動くものが一つのものであるとは秩序をもつものであり、秩序をもつものは一即多としてそれが自己の中に自己を映すのが文字であるとおもう。文字がこのわれの存在の根源であるとは、赤文字は形成としての宇宙の根源であるということである。われわれは文字の発現を生死に於てもつ、宇宙は生死に於て自己の運動をもつのである。そこに神の言葉に随うものは生き、背くものは死するという所以があるとおもう。

長谷川利春「自覚的形成」