坂田書店の本棚で『「無」の思想・老荘思想の系譜』という本を見出した。私は漢字の中に育ちながら中国思想に弱い。それなら何に強いかと言われると困るが、隣国であり乍ら殆んど知らないと言ってよい。特に老荘は何だか反文化的な感じがして拒絶反応というたものをもっていたようにおもう。所謂日進月歩とか、未来への展望とかいったものが欠除しているように思って、路傍の石として見ていたように思う。併し最近時間が成立するには時間を包むものがなければならないということ、即ち文化が発展し、未来への展望をもつには、初めと終りを結ぶものがなければならないということに考えが及んで、無の問題は非常に重大な意味をもって来た。私は一つは老荘、ひいては中国が自己の根底として見出した思想を学ぶためと、一つは私の思考の中から必然的に現われた、無の問題の検証と明確化のためにその書を買った。併しここに書くのは無についてではない。その上部構造としての自然についてである。老荘は知られる如く世界の大本を自然に見た人である。私は彼等を尋ねることによって私自身の自然を見たいとおもう。
本書は最初に自然は「自」が主格であり「然」は助辞にすぎないと書いて、「自」には オノズカラとミズカラの二つの意味があると書いている。そしてミズカラのほうは、自分 で手を下して何ごとかをする場合に使う。これに対してオノズカラは、自分が手を下さないでも、そのことが自動的に運ぶ場合に用いられる。もう少し詳しくいえば、ミズカラには意識や努力がともなうのに対して、オノズカラはそうした意識や努力を必要としないことをさす。もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる。ところが、この自はミズカラかオノズカラかという質問を中国人にすると、いくら日本語のうまいものでも、何のことやらさっぱりわからないのが普通である。つまり中国人はそのような区別をしていないのである。いや、中国人でなくても、少し広く漢文をよんでいると、ミズカラとよんでも具合が悪く、オノズカラとよんでも具合の悪いような「自」に出会うのである。つまりそれはミズカラでもなく、オノズカラでもないわけである。
それでは「白」の本来の意味は、どのようなものであるのか。いちばん手っ取り早いの は、その反対語である「他」という言葉をおいてみることである。つまり自とは「他者で はない」ということである。もう少し親切にいえば、自とは「他者の力を借りないで、そ れ自身に内在する働きによること」であるはずである。これが自の第一義にほかならない。ひるがえって、さきのミズカラとオノズカラを、この自の第一義から見るとどうなるか、実はミズカラオノズカラも、自の第一義を共通の地盤としているのである。唯異なるのはミズカラでは自身に内在する働きがあらわれるときに意識や努力が伴い、オノズカラでは同じことが意識や努力を伴わないのである。もし意識や努力の有無ということを除外するならば、両者の区別はなくなってしまう。漢語の 「自」というのは、本来このような意味 のものである。 中略
しかしここにあげた自然の第一義だけで、実際に使用されている自然という語の意味を完全に説明出来るかと言えば、それはそうではない。実は「他者の力を借りないで」というが、その他者が具体的に何であるかは、その場その場で異なっている。したがって自然の具体的な内容は、何を他者としておくかによって決定され、他者が変れば、自然の内容もそれにしたがって変わる。自然が多義であるのは、実はこれに対応する他者が動くためである。と書いてその多義として、無為自然と有為自然をあげ、各々其の中に見出でた諸家のさまざまの意見をあげている。
私は読み乍ら、第一義があるのにその中に包摂出来ないというのは何うゆうことであろうかと思った。派生したものを統一することが出来ないのは第一義ではない。第一義は多義をして関聯あらしめ、それを結合してこそ第一義である。第一義は多義に対して根本義の意味を有するのでなければならない。私は第一義によって、多義が説明出来ないということは、第一義への徹底的な追求に欠けているのではないかとおもう。斯る観点から第一義を掘り下げることによって、無為自然と有為自然、オノズカラとミズカラの接点を求めてみたいとおもう。
「他者の力を借りないで、それ自身に内在するはたらきによること」とは如何なること であろうか、はたらくとは形作ることである。形に実現してゆくことがはたらくことである。オノズカラもミズカラも形に出するということでなければならない。形に出するのに ミズカラとオノズカラとがあるのである。即ちオノズカラとミズカラは、形に出ずるあり 方が異っているということでなければならない。
自身に内在するものによって、自己の展開をもつものは生命である。はたらくとは、生 命が自己の形を作ってゆくことである。ミズカラのはたらきが意識や努力をともない、オノズカラのはたらきが意識や努力をともなわないということは、ミズカラとしてはたらくものは、意識や意志をもつ生命であり、オノズカラとしてはたらく生命は、意識や意志をもたない生命でなければならない。
生命が形作るとは時間的である。時間とは操作の形式であるといわれる。形作るとは無限の否定と肯定である。生命が育つとは一瞬も止むことのない摂取と排泄である。否定と肯定に於て生命は自己を形作ってゆくのである。生命形成が時間的であるとき、生命の形は時に於て現われるのでなければならない。ミズカラがオノズカラに対して、意識と努力をもつというとき、ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後であらわれたということでなければならない。そこで私は先ず生命形成に於てオノズカラとは如何なるものであるか究明したいとおもう。
生命は内外相互転換的である。動物に於て環境は、食物的環境であるといわれる如く、外を内とし、内を外とすることに自己を形作ってゆくのである。外を内とすることは物を身体とすることである。自己ならざるものを自己とすることである。変化せしめることである。変化せしめるということは、技術的ということである。技術的なるものが内在的であるとは、身体は機構的である。生命が形作るとは、機構的身体として形作るのである。機構的身体に於て、外と相互否定的に結びつくのである。環境と相互転換的に結びつくのである。
動物の生態の本を読むと、動物と環境の結びつきは驚異的である。その動的なるものに於て、環境は動物の外であり、動物は環境の内である。私はそこにオノズカラがあるとおもう。環境が主体を作り、主体が環境を作る。そこに寸分のすきを見ることも出来ない。それ自身に内在するはたらきとは、身体がそれ自身機構的として、外を内に変化せしめ、自己を維持する営為をもつことである。オノズカラとは、生命形成に於て環境と主体の相互転換が純粋持続として、直に一なるものとしてあることであるとおもう。
ミズカラが意識や努力をもつとは、生命形成の直に一なる転換が内と外に相分れることである。内と外とが対立するものとなるのである。直に一なるものがオノズカラであるとすれば、それはオノズカラの否定である。本書の最初にも「もしそうだとすれば、ミズカラとオノズカラは正反対の意味をもつことになる」と書いている。意識とは外を写すことであり、努力とは意識が写した外を、力の表出に於て変ぜんとすることである。直に一なるところに意識はない。内外相分れるとは、内外を相分つのである。それはオノズカラとしてはたらく生命に新しい生命が加わったのである。ミズカラは新しい生命の誕生としてオノズカラとしての生命のあり方を否定したのである。
内外相対立するとは、純一なる内外相互転換の流れを断ち切ることである。断ち切るとは否定をもって相距てることである。外は主体を否定するものとして物となり、内は外を否定するものとして生命となるのである。物は生命の否定として、死として迫ってくるものとなり、生命は物の否定として、死を生に転ずるものとなるのである。そこに意識と努力が生れる。即ちミズカラとなる。
物が我々に死として迫ってくるものであり、主体が物を否定して、死を生に転ずるとは 製作的生命となることである。物が死として迫ってくるとは、純一なる流れが断たれて固定することであり、死を生に転ずるとは、固定としての物を、新たな物を産む物として流動化せしめることである。そこに物の製作があるのである。生命とは内外相互転換としての、形成作用の純一なる流れであり、物とは外としての純一なる流れの停止の形相である。絶対否定を媒介しての流動をもつところにミズカラがあるのである。ミズカラとは外を製作としてもつことである。
それでは製作とは如何なるものであろうか。製作とは技術によって、外を生命の内容に変革することである。斯る技術は何処から来たのであろうか。私は前に生命は内外相互転換的であり、外を内に転ずるのは技術的であるといった、技術的として身体は機構的であるといった。断る機構的なるものが、対立として、否定的として迫ってくる外に向ふとき道具となるのである。手は摑むもの、打つものとして、外の物を媒介するとき、延長として斧を見出し、槌を見出すのである。稲はそこにあったものではなく、水を引き、草を除いて作られるものとなったのである。斯くしてミズカラとしての生命は、転換としての外を飛躍的に大ならしめ、内を豊潤化していったのである。
動くとは相反するものの方向に動くのであり、否定は相反するものとなることである。 オノズカラとミズカラとは正反対である。併し見て来た如くミズカラは、オノズカラより 出で来ったものである。出で来ったとは、出で来る前のものではないことであり、否定として正反対のものである。而して否定をもつとはその根底に深い同一をもつことである。ミズカラがオノズカラから出で来ったとは、ミズカラはオノズカラの否定であると共に、ミズカラはオノズカラの自己否定として出で来ったのである。即ち形成的飛躍として出で来ったのである。
ミズカラはオノズカラの否定として、オノズカラが自然であるとき、ミズカラは自然であるということは出来ない。オノズカラは成るのであり、ミズカラは作るのである。そこには異った形成的系譜が成立する。オノズカラは生れ来ったものとしての身体に形成をもち、ミズカラは道具によって変革してゆく物に形成をもつのである。オノズカラは内在的なるものの発展であり、ミズカラは対象的として、世界形成的である。
而してミズカラはオノズカラより出で来ったものとして、何処迄もオノズカラに即してあるのであり、オノズカラは、ミズカラが自己の内在的なるものより出で来ったものとし て、ミズカラを己れの飛躍的展開として、ミズカラを自己のより明らかな形相として、 ズカラより展望されるものとしてあるのである。それは動的生命の展開であり、形成としての否定が肯定であり、肯定が否定としてあるものである。そこに自然の多義性があり、多義性を摂取する一義性があるとおもう。
非連続の連続である。非連続の連続とは生命が個体的であるということである。生命は生れることによって連続する。生れたものは親と異なったものである。それは其の中より生れたものとして同一でありつつ、それ自身の行動をもつものとして異なったものである。生命が自己形成的であるとは進化をもつことであり、進化は斯かる異なった個体を生むことによってもつことが出来たのである。その極限に成る生命より、作る生命があらわれたのである。多義性とは、否定が肯定であり、肯定が否定である否定の肯定の何処に視点をおくかにあると思う。
ミズカラはオノズカラに対して、時間的に後に現れたものとして、形成的進化に於て優 越をもつものである。それなれば老子は何故に無為自然を唱えたのであろうか。その理由として老子の生きた殺伐たる千才の時代が言われる。それなれば何故その時代が過ぎ、平和を謳う時代が来ても読まれ続けたのであろうか、私はそこに単なる時代を越えた、人生の深奥への問いがあったとおもわざるを得ない。普遍なるものへの問いがあってこそ何時迄も読みつがれ、問い直されることが出来るのである。
ミズカラとして、人為としての製作の世界は対立の世界である。ミズカラとは個体とし てのこの我である。個体が個性として技術をもつところに製作があるのである。技術は伝統に於て成立するものである。我々は何かの技術をもつ、その技術は師匠、教師亦は親より伝承したものである。師匠はその師匠その師匠へと無限にさかのぼるものであるそれは究めつくすことの出来ないものである。私がオノズカラとしての生命が技術的であり、構造的として、ミズカラの技術はそこより生れ来ったと言う所以である。ミズカラが製作的生命であるとは、斯る無限なるものによってある生命であることである。
技術が無限なるものであるのに対して、技術をもつものとしての個体は生来ったもの である。それは死を対極に有する、死すべく生れ来ったものである。技術を有するものとして、無限なるものによって存在するミズカラは、露の生命として死んでゆく有限なるものである。即ち製作的生命としてのこの我は、我ならざるものとしての我なのである。矛盾として、苦悩としての生命なのである。それはこの我によって突破することの出来ない矛盾である。キェルケゴールの虚無や絶望につながるものである。
私はそこにオノズカラの否定としてのミズカラが、ミズカラを否定しなければならない 所以があるとおもう。老子は斯る否定をふたたびオノズカラに帰ることに求めたのであると思う。ミズカラの有限性に対して、オノズカラ成るものは無窮の時間の上にある。否無為にして化すものは時なきものである。無為なるが故に、変じつつ変ぜざるものである。時の初めと終りをつつむものである。初めと終りをつつむものとして、永遠なるものである。而して前にも述べた如くオノズカラ成ったものは、環境と主体の寸分のすきもない一体としてあるものであった。そこにはオノズカラ成るとか、無為にして化すものに対する厚い信頼があったとおもう。文明の未だ幼稚なる時代に於ては、人間の製作の如きは、自然の大なる力の前に笑うべき一煩事であったであろう。
併し老子の回帰した自然とは如何なるものであったであろうか。生命が形成的なる限りあるものは全て技術的にあるのである。オノズカラ成るも、無為にして化すも自然の技術である。人間が言葉をもち、手をもつのは物を製作すべく生れて来たのである。私は老子の無為にして化すという言葉も、人間の製作的生命を自然に投影したところより生れたものであると思わざるを得ない。そこに見出された無窮なるものも、製作としての操作的時を媒介として見出されたと思わざるを得ない。私は物を製作すべく生れて来たものが製作を放棄するのは真に生きる所以でないとおもう。オノズカラ成るものも、外を変革して内を形成するのである。製作がオノズカラなるものをミズカラに転じたとすれば、ミズカラはオノズカラの完成の意味をもつのでなければならない。製作する生命が額に汗して働かなければならなないのであれば、我々は惜しみなく汗を流すべきであるし、思考に沈面して苦悩しなければならないのであれば、我々は夜深く頭を抱えて机に呻吟すべきであるとおもう。そこからのみ新たな世界の光輝は生れてくるのである。
私の言わんとするが如きは、老子は百も承知であろう。私は老子の無為自然の思想が、忽然として天に掛るが如く生れて来たとおもうことは出来ない。それ相当の苦悩と鍛練を経て来たものであるとおもう。そしてその結論であるとおもう。ミズカラとしての言語と思考の上に打樹てたものであるとおもう。ミズカラの個の相対性と有限性を、ミズカラの底に超えたのであるとおもう。唯私はミズカラを超えんがために、ミズカラとしての作為を捨ててかえり見ないところに釈然としないものをもつのである。オノズカラを超えたミズカラはオノズカラを踏まえてある。ミズカラを超えたオノズカラは、ミズカラを踏まえてあるべきだとおもうのである。
我々は何処迄も生命としてある。親より生れたことによってあり、子を生んでゆくものである。製作的生命といっても生命を製作するのではない。生れた生命が物を作る生命であるのである。我々が製作として道具をもち機械をもつというも、生れ来った身体の機能を外としたのである。我々は時計をもつ、併し時計を、身体が時計を内にもち、内にもつ時計を外としたものである。斯る意味に於てオノズカラはミズカラを包むものである。併し時計を外とすることによってより正確なものとなるのである。オノズカラとしての身体が時計をもつことを知るのも、ミズカラとしての身体が時計を外につくることによってである。斯る意味に於てミズカラはオノズカラを包むということが出来る。
オノズカラはミズカラの個としての相対性と有限性を包み、ミズカラはオノズカラの形 成作用に愈々明らかな形を与える。併しオノズカラによるミズカラの包摂は、ミズカラが製作する個性として、相対性と有限性をもつことによってあるのであり、ミズカラが愈々明らかな形を得るのは、オノズカラの始めと終りを包む無窮の形成作用に負うのである。老子の無為自然も言語による表現である限り、それは意識の内容でなければならない。それは自己の生としての自然を愈々明らかな形に於て捉えたものである。本書の中に無為自然と有為自然というのがある。恐らく人為の加わったというは、製作的生命の立場から見たとおもうが、真に対立したものとしてとらえず、オノズカラに摂取された人為としてとらえられている。そこに思考の甘さがあったとおもう。ともあれ正反対にあるとは否定的にあることであり、否定的にあることは相互媒介的にあることであり、相互媒介的にあるとは対者によってあることである。オノズカラはその底にミズカラに転じ、ミズカラはその底にオノズカラに転ずるのである。
オノズカラがミズカラに転じ、ミズカラがオノズカラに転じるとは、元のオノズカラとなり、ミズカラとなることではない。オノズカラはミズカラの形相に生き、ミズカラはオノズカラの形相に生きることである。オノズカラがミズカラの形相に生きるとは、製作した物を生命の形象とすることである。生れて生むオノズカラなる生命のあらわれとする のである。物が情を宿すものとなるのである。ミズカラがオノズカラの形相に生きるとは始めも終りもなくして、始めと終りを包むものとなることである。始めも終りもなくして とは、無限に形成的であることであり、始めと終りを結ぶとは、第一義のそれ自身のはたらきによることである。それはミズカラとしての自己に、永遠を現前せしめんとすることである。
私達はミズカラとしての自己であるとき、永遠なるものを愛して止まない。私はそれ はミズカラの基底にオノズカラがあり、それは絶対しつゝ相互媒介的にあるが故であるとおもう。相互媒介的にあるとは対立するもの動的に一であることである。形成的であることである。私はオノズカラがミズカラに転ずるときにこの我があり、ミズカラがオノズカラに転ずるとき、摂取するものとしての神が見られるとおもう。そしてそれは形成的尖端 に見られるのである。私達はミズカラとして、製作的生命として限りない努力をするところに、背後としての、転じるものとしての神が現われるのである。
長谷川利春「初めと終わりを結ぶもの」