ある対話より、自己えの考察

 「あいつはじきに自分を失なうでのう。」「うん気の短い奴やさかいんのう。」「どない言うても堪えてくれへんねんやがい、困って仕舞うたがい。」聞くともなしに聞いていると、冗談に名前を呼び捨てにしたのを、怒ってからんで来て困った話らしい。私は聞き乍ら、自己という問題に対してこの話がもっている内容に興味をもった。怒りは言われる如く自己防衛の感情である。自己の一部は全てが奪われようとするときに現れる情緒である。恐らくその男が怒ったのは、呼び捨てにされることによって、自己の名誉が失われるのを感じたのであろう。相手が自分を同等以下に見ていると思い、猛然として同等の復元を要求したのであろう。

 私が此処で興味を感じたのは、この自己防衛が何故に、あいつはじき自己を失うでのうという自己喪失となるかということである。自己を保持しようとする行為が自己を失う行為であることは矛盾でなければならない。而してそのことが日常に於いて何の疑うこともなく対話されているのである。それはそのことが世の中に於いて自明の事として認められているということであると思う。血迷うといわれるのはそのような状態であり、怒りは常にこの様な状態を指向しているのであると思う。そうであるならば斯のような矛盾としての自己とは如何なるものであろうか。

 自己が自己であろうとすることが逆に自己を失うことであれば、自己が自己であるためには、自己であろうとする自己を捨てなければならない。何処え捨てるか、それは眞に自己であらしめてくれる処でなければならない。自己が自己の中に捨てるのである。自己ならしめるのも亦自己である。そのことは我々は自己の底により大なる自己をもつことでなければならない。このより大なる自己に映して、自己であろうとする自己は自己を失なった自己であり、血迷った自己なのであると思う。私達が読書するのも斯るものであると思う。読書するとは自己ならざるものの中に歩みを進めることによって自己を見出さんとするものである。歩みを進めるとは自己を否定して、自己をその中へ投げ込んでゆくことである。投げ込んでゆくところは我々を超えて、我々に否定を要求し、その呼び声によって、自己が露はとなり、眞個の自己となるのでなければならない。私は斯かるものを我々が生まれ働き死んでゆく全人類が形成し来った 歴史的世界に求めたいと思う。我々はこの世界に生きものとして、日常自己転換を行っているのである。この世界に生き、この世界を生かすべく我々の行為はあるのである。そこに自己を保持せんとすることが、自己を失うことの自明なる所以があると思う。我々は一人生きるのではない。全人類の連鎖の中に生きるのである。それが我々の平常底である。

 歌人は何処迄も歌の世界にこれを投げ入れて、他の歌人と面々相接することによって眞個の自己となるのである。全人類が作る世界とは個と個が相対する世界である。象徴主義と現実主義は相否定する。浪漫と写生は相争う。一つは未来よりの限定であり、一つは過去よりの限定である。而して争うことによって写生と浪漫は自己を明らかにするので瞬々止むことなき自己発展はここより生まれるのである。他者との相互否定を媒介とするのである。自己の停滞はマンネリ化として、自己の喪失である。自己をよしとするものは生ける屍である。而して相互否定を媒介として展開してゆくのが歴史的世界である。斯るものによって歴史は事実より事実へと転じてゆくのである。我々は歴史的世界の一要素として、各々が歴史的創造の創造的尖端に立つのである。それが否定を媒介するということである。我々は創造的尖端として世界を否定し、世界の一要素として世界に回帰するのである。私が写生の立場から浪漫を否定 することは、すでにある世の形を否定することであり、否定することによって写生を打ち樹てることは、新たな写生を見出すこととして世界を創造することである。斯くして世界は内に深まり、外に形を露はとするのである。否定と回帰は一つである。世界を否定することは努力である。相互媒介的として、否定することは否定されることであり、否定されることは苦痛である。世界に生きることは苦痛であり、努力である。我々は苦しむべく努力すべく生まれて来たのである。力の表出に於いてより大なる空間と時間をもつ。そこに我々は全人類と結合し、自己を見るのである。血迷うた自己は斯る自己から抽象された自己に外ならない。自己があるとは、他者の抵抗として、力の表出としてあるのである。私は今高遠な論理を語っているのではない。日常に於いて私がと言う時斯るものとしてあるのである。

 ロゴスとはこの自己に現れた世界の相に外ならない。世界は我々を超えた深さをもつ、我々を超えた深さに我々が生きるとは、我々は世界の呼び声に生きることである。ロゴスは我々に汝かくなせと命ずるのである。良心も真実も美もこの呼び声の中より生まれるのである。呼び声に生きるとは、眞個の自己は世界であるということである。そこに我々は回心をもつのである。平常底に翻るのである。

長谷川利春「満70才記念 随想・小論集」